永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

覆われていたモノに覆い被さって下さった御子イエス・キリスト

ここまでは、創造主と記述してきましたが、三位一体の神(御父・御子・聖霊)と同一の存在です。

 

「霊的回復のための契約」の最重要点は、「義と愛」をどこにたてるかにかかっています。

 

旧契約の時代には、幕屋や神殿において、至聖所が設けられ、年に一度、大祭司が生贄の血を持って入り、契約の箱の上部に注いだと記されています。そうすると、そこに「シャカイナグローリー(神の存在)」があらわれたといいます。もし、その血が受け入れられなかったなら大祭司の命はないために、片足にロープを付け、動いている確認のために鈴をつけて隔ての幕をくぐっていったと伝え聞きます。

 

その形式は、新契約では「御子イエス・キリストが肉体をとって十字架上で贖う」ことになっていたのです。

 

旧契約では、一年に一度、至聖所に血を注ぐことになっていたのですが、新契約ではこの一回だけで完成するのです。

人の形をとって人と同じ生活環境で様々な誘惑や試練に打ち勝ってくださった唯一の正しい御方が、全人類のために全てを背負い全血を注いで贖いを完成して下さったからです。

 

それは、自ら契約の箱の蓋になって全血を注いで下さったように見えるのです。

 

選ばれた母マリヤはダビデの家系でした。処女でしたが聖霊によって身ごもったとアダムの性質を受け継がない形で、また養父のヨセフもダビデの家系です。人には想像もつかない信じがたいことを通じて、契約を筋道を通して完成して下さったのです。

 

福音の三要素

(1)キリストは私の罪のために死なれたこと

(2)墓に葬られたこと

(3)三日目によみがえられたこと

 

特に、政治犯として十字架刑に処せられたのですから、墓に葬られるというのは例外中の例外なのです。普通は晒し者にされて、風葬にされていたの記述があるようです。

 

十字架に架かられて絶命したときに、聖所と至聖所との隔ての幕が上から下に裂けたと記されています。

つまり、御子イエス・キリストの犠牲が受け入れられた証なのです。

 

 ※このリンクが全文です。携帯電話などから見やすくするためにこちらでも公開することにしました。「真の平安を得る道」

(C)DaviBlackstone2012