永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

活動的だけだとヤバい ゲーテ

『活動的な無知よりも恐ろしいものはない。 ゲーテ

何かに取り組む時に、どの様な心構えでいるのか?を問われているようなフレーズです。

「活動的な無知」とありますが、この正体を探る必要があります。

人間には、「内向」の人もいれば「外向」の人もいます。「能動的」な人もいれば、「受動的」な人もいます。

「能動的」な人にも、個人差があり、動き回らないと死んでしまうという恐怖感を抱えた「マグロ型」の人もいます。一方、何かの楽しみや目標を伴って熱心に活動している人もいます。

動き回る人の価値観からすると、受動的な待つ人の価値観は受け容れ難く、突くことがあります。その背景にはいのちをかけた「マグロ型」の切迫感があるかのようです。

人間は、自分の自由意志で考えて、それぞれが決断すれば良いのですから、何も人を批判したり、揶揄したりする事をしなくても良いはずです。

それが、相手のためになっていれば良いのですが、相手を批判する事になっていれば、攻撃するだけの行為になります。

どうして、そのようになるのでしょうね。

それは、「マグロ型」の価値観と恐怖心にあるのだと私は考えています。

活動的な人は、周囲の人から見ても魅力的な部分もありますし、羨望の眼差しも注がれるでしょうね。しかし、大切なのは、その内容ではないでしょうか?

闇雲に動き回ることは、恐ろしくなるような結果に至るのかも知れませんからね。

その活動に、意味や目的を持ち、具体的にステップをイメージしていけているか? などを検証しながらの方が望ましい結果につながる可能性が高くなります。

「活動的な無知」に陥らないように、注意したいと私は考えています。

考えてばかりでは、事態の改善も見込めませんから、自分の思考を働かせて、活動に結び着けていきたいですね。


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe[注釈 1]、1749年8月28日 - 1832年3月22日[1])は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。

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オーバーフローした時に、まず立ち止まって整理整頓

人生には、自分の限界を知るときが来ます。

「モテ期」があるのだと説明する人もいますが、人間の対応力は、それほど広くないようです。

個人差や能力差があり、恋愛なども「7股」などと、活発な人もいます。

経営者にも、やり手の人は、同時に多くの事業を立ち上げて、維持発展させています。

それでも、自分だけでは、どうしても処理しきれない局面に遭遇します。

「オーバーフロー」ですね。

自分の器に収まりきらずに溢れてしまうのです。

何かを始めるときには、積極的にアピールをして、「どんな些細なことでさせていただきます」なんて、調子の良いことを言います。でも、忙しくなってくると、案件を選び出すのです。

もちろん、自分の能力には限界があり、身体は一つですから、その現実に目を向けていく必要があるのです。

自分にも、「モテ期」が来たと思ったら、まず、立ち止まって、情報の整理整頓をした方が良いと考えています。

普段、「すること」「思いついたこと」「衝撃を受けたこと」「その他の重要なコト」を書きながら、日常を管理しているとしても、それぞれの具体化がなければ、次に進めるのに渋滞が発生してしまいます。

「すること」は、特に、「いつ、どこで、誰と、何をどうするのか?」を決めていく必要があります。

ただ単に、人と数多く会っていても、お互いの「win-win」に繋がらず、時間の浪費になってしまうことがありますから、用心が必要ですね。

お誘いを受けたときにも、吟味や内容の検討は、ある程度必要なのだと考えます。

私が肝に銘じているのは、「調子が良すぎることは、言わないようにする」と言うことです。「何でもやります。」では無しに「できることは可能な限りいたします。」という表現に留めています。

「忙しすぎることは、身を滅ぼす方向性」だとも考えているので、自分がコントロールできる範囲内で、動こうという意識でいます。

でも、自分のハンドリングの中で、興味があることには手を伸ばすことはできます。他者が利害関係で絡むと、自由度が極端に狭くなってしまうこともありますからね。

「自由は不自由」と感じる不思議な心理もありますし、「一人は寂しい」という考え方もあります。しかし、「個の確立」からすべてがはじまると考えれば、「寂しさの背景」を見ることができます。つまり、個の確立ができていないと寂しさだけを強く感じてしまうという流れを理解をしています。

「忙しいから自分はイケている」とか「忙しいから人生充実している」は、検証しておかないと、気がつけば大赤字な結果に繋がる可能性もあります。

「モテ期」が到来しても、慌てない、浮き足立たないを大切にしたいと考えています。

隣人としての振る舞い 箴言6:1-3

『1 わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、
2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、
3 わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。あなたは隣人の手に陥ったのだから。さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。 箴言6:1-3 新改訳2017』

「保証人になるな!が先祖からの遺言です。」という断り文句を伝承している家系もあります。

保証人になって、破綻するケースも多いようです。ですから、それが自分で負えるのかどうかを慎重に判断する必要があります。

「お金を貸すと縁が切れる」とも、よく聞きます。不思議なコトに、お金を貸さない方が、おつき合いが続くというのです。

人生においては「お金」は必要不可欠ですが、その扱い方によっては、大きな変化があるコトを考えの中に入れておく必要があります。

「良き隣人」でありたいという気持ちが強すぎると、ついついお節介に、いろいろな所に首を突っ込んでしまう傾向が出てしまいます。

それに耐えられる器量が自分自身にあれば良いのですが、それも、わきまえる必要がありますね。

保証は、他人のための誓約です。そのために、自分の口で言葉を発して、言質をとられてしまうのです。それが、履行されれば良いのですが、そのお鉢が回ってくる(保証人の債務になる)ことも可能性が大きいのです。

「しまった」と感じたときに、自分の窮状を誰に助けてもらえるのでしょうか?

この箴言で示されている「隣人」は、複数います。一人は、保証人を依頼した人であり、もう一人は、助けを請いに行く「隣人」です。

これは、創造主である神【主】に助けてもらう他に方法はありません。

それは、メシアであるイエス・キリストです。「愛」を持って「義」を完成された唯一の存在です。

肉体を持って、全人類の罪を背負い、十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活されました。

その光景は、人間の視点では、「あーやっぱり死ぬのか?自分自身さえ助けられないのか?」であったり、「十字架から降りたら信じてやる」といった傲慢な態度でした。

ところが、「義」を完成させるためには必要不可欠な「完全な義人の肉体的死(唯一の犠牲)」を完成させるためだったのです。

それが、三日で神殿を再建させるというメシアであるイエス・キリスト予告通り、復活して弟子たちに現れて、昇天しました。

この箴言は、お金の保証人というよりも深い意味があるのです。

それは、人間の傷んだ魂の保証です。それを最良の隣人として、メシアであるイエス・キリストが完成されたのです。

あらゆる破綻を経験していても、すべての重荷を引き受けてくださる【主】に助けを求めることが、人生最良の選択なのだと、私は考えています。

運命とどう向き合うか? ホメロス 「イリアス(岩波書店)」

『それにまた死の運命は、人間の世の誰一人として、免れおおせる者はないのだ。臆病者であっても勇士にしても、一旦こうと定まった上は。 ホメロス 「イリアス岩波書店)」』

人間には、寿命があります。これは、機械のような耐用年数ではなく、個人差が大きい不思議なモノです。

それを決めるのは、創造主である神【主】です。

年齢に関係なく、善人にも悪人にも、いつか必ず訪れます。

報道などでは、人間にとっては理不尽に感じる亡くなり方をするケースが多いので、非常に大きなショックを受けます。それは、犯罪に巻き込まれたり、応戦していて防ぎきれなかったり、強盗などの鉢合わせなど、列挙すればキリがありません。

人間は、このフレーズに示唆されているように、理不尽さを感じつつも、その現実を受け入れるしか術は無いようです。

誰でも、生きている以上、ただ座って「死」を待っている訳ではありません。

日常生活を送りながら、時には、非日常を楽しみながら、定められたその時が突然の如く到来するのです。

ですから、「いつかその時が来るのだ。」という意識も持ち合わせておく方が、覚悟という点では、大切なのでは無いでしょうか?

二本差しと言われるサムライは、闇討ちや後ろから襲うのは卑怯者だとされています。「勝負」と「いのちをとる殺人」の差が、ここにあるようですね。「立ち会え」という文句も、正面切っての勝負という意味合いがあります。勝負であれば、相手が背を向けて、逃げ出したときに、勝ち負けが決まるのです。勝負であれば、いのちをとることにはならないでしょう。

外道は、いのちをとる殺人に向かいます。問答無用で、辻斬り、闇討ちなどなんでも厭いません。まるで、ケダモノの所業です。このような手にかかるのは、理不尽極まりないですね。

アフガニスタンに水路整備の貢献をしていた中村哲医師も、理不尽な最期を迎えました。とても、残念でなりませんが、その意志が現地で引き継がれていて、活動が続くことを願ってやみません。

世界のあちこちで、利権がらみの紛争が絶えませんが、それらに巻き込まれていのちを堕とす人たちもいます。それらの報に触れると「理不尽だ」との思いが強くなります。

利権の背景や背後を推察すると透けて見えるコトはあります。人間の希望や自由を奪い、奴隷のように扱いたい勢力があり、それらに全世界の人たちが翻弄されているという現状が浮かび上がります。その源は、サタン(悪魔)であり、火の池(地獄)への道連れを探し、動員しているに過ぎません。

これを理解して、一人一人が自分のために与えられた永遠への備えをしておく必要があるのではないかと私は考えています。それは「永遠の幸福マインド」であり、それも合わせて、その時に備えるならば、気持ち多少のゆとりが生まれるのではないでしょうか?

ホメーロス古代ギリシャ語: Ὅμηρος、Hómēros、羅: Homerus、英: Homer)は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。ホメロス、あるいは現代語式の発音でオミロスとも。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。「ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する[1]。現在のギリシアではオミロスと発音されている。古代人はホメーロスを「詩人」(ὁ Ποιητής、ho Poiêtếs)というシンプルな異名で呼んでいた。

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再起できる人、できない人 その差 運 意欲 生命力

「車が廃車になるくらいの事故で、あの人はもうダメかと思った。」なんて会話をしている一方、「あの人は、まだ若いのに…」という話も増えてきました。

これは、身体のコンディションだけではなく、経済状態などでも話題にします。

危機一髪から復活するような、まるでフェニックス(不死鳥)のような人がいるのも現実です。

でも、その差は一体何なのか?をディスカッションしたりします。

大前提として、天寿は人間が決めるのでは無くて、創造主である神【主】が決めるのです。その原則に従って、人間は、生きているのではなく生かされているのだと私は考えております。

しかし、身体の健康管理は、人間自身がセルフケアをする必要があります。管理者としての役割には、努力も必要ですね。

コンディションの悪化を招くきっかけは、脱水とか、不眠などの些細と考えがちな要素が多いのだと考えています。脱水は、血液をドロドロにし、血栓ができやすくなったり、痙攣(けいれん)などを引き起こす要因になったりします。

不眠は、疲労回復が達成できずに、免疫力の低下など、体調不良に繋がる要素です。「どうすれば良質な睡眠が得られるのか?」は、健康を維持増進するために最大のテーマなのではないでしょうか?

一方、認知機能の不具合は、原因がよくわからないとされています。脳の変化も伴うとも言われています。年齢を重ねると、考えていることと行動していることの辻褄が合わないことが増えてきます。年齢が若くても、疲労蓄積などによって、一時的に、認知機能の低下を招くことがあります。

近年、スマホは手放せないような状況がありますが、さっきまであったのに、手元に無いといった状況も、一時的な認知機能の低下なのかも知れません。普段には、絶対に置かない場所に「ポン」と置いてしまって、忘れてしまい、慌てて捜索することになりますね。

人体の綻びは、あちらこちらにあり、まるでブラックホールのように、人を待ち受けているかのようなイメージです。

身体のコンディションが著しく変化する一例が、胃の切除です。これをすると、食事の回数を増やさなければ、必要なカロリーを摂取することが難しくなり、健康維持するのも、人一倍の頑張りが必要になります。その様な中、食欲減退で体力を低下する人がいますが、周囲が驚くほどの意欲で、栄養摂取に励んで、十二指腸を引き延ばしながら、体力を増進させている人もありました。

生命力の強さを感じると共に、そのような意欲と共に湧き出てくるパワーのスゴさに圧倒されました。

消化できる環境が変化をしたのだから、体力を低下させてしまう人が圧倒的に多い中で、その差が生まれるのは何なのでしょうか?

生きるという健全な野望なのかも知れませんね。それは、執着とか執念という情熱的なモノなのでしょうか?

もう一つ感じるのは「栄養が身になる」という代謝や消化の能力が活性化されていることです。

それらが、噛み合わなければ、健康増進の結果には繋がりません。

それは、生かされている人間からすれば、「運」の領域なのかも知れないと考えています。

「人事を尽くして天命を待つ」の実践編ということでしょうね。

二人の証人の末路 ヨハネの黙示録11:7-13

『7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。 ヨハネの黙示録11:7-13 新改訳2017』

「二人が証言を終える」と、「底知れぬ所(アブソス)から上って来る獣(反キリスト)」に殺されます。

彼らが使命が与えられているうちは、彼らは死ななかったので、それを全うし「終えた(テレオウ)」ことを表し、神は、敵が彼らを殺すことを許されるのです。

反キリストは、底知れぬ所に一度入っていたのですが、生き返って来たのです(ヨハネの黙示録13:3-4)。

二人の証人の死体は、墓に納めることを許されず、「大きな都(エルサレム)の大通りにさらされる。」と記されています。大きな都は、人間の視点です。かつて、メシアであるイエス・キリストも十字架に架けられました。

「その都は、霊的な理解ではソドム(性的倒錯の罪を持った町)やエジプト(神の民を迫害した国)と呼ばれ、」と記されているのは、エルサレムの堕落の状態を見た神の視点です。

これは、神の敵にとっては、この勝利は画期的で記念すべきものですから、それを告知するため三日半の間さらし者にするのです。「彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす」ほどのパーティーが繰り広げられます。インターネットの環境が発達している状況では、SNSなどで大拡散されることでしょう。

「その死体を墓に葬ることを許さない」ことは、申命記21:22-23に禁止されている行為です。

このことでパーティーを繰り広げているのは、携挙で天に挙げられなかった不信者たちです。自分たちに悔い改めを迫り苦しめていた「二人の証人」が死に、神と証人を恐れなくても良くなったこと、また、反キリストが神であるという認識が共有されたことで、ヨハネの黙示録最高潮の「喜びの瞬間」がやってくるのです。

しかし、「二人の証人」の死が彼らに伝えた真理は死にません。

さらに、「三日半の後」衝撃的なことが起きます。「いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。」つまり、復活するのです。全世界に広がる喜びは、神の力を認識し、恐怖に一転した。

天から大きな声が「ここに上れ」と言い、彼らは雲に包まれて天に上った。この光景を見ていた人たちは人々は、さらに恐怖に襲われることでしょう。二人の証人の復活と昇天は、実にユニークです。第1の復活(黙20章)ではなく、携挙でもない。その間に起きることで、これは、神を信じようとしない「地に住む人々」への「しるし」なのです。

地震が起き、エルサレムの10分の1が破壊され、7千人が死にます。これは、エルサレムに下る神の裁きです。「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。」生存者に信仰に導く畏怖の念を抱かせるためです。「天の神」という言葉は、黙示録に2回出て来ますが(16:11)、「GOD(創造主である神【主】)」や「god(神々)」と表記するように、その差を明確にする必要性もあります。

ここでは、「天の神に栄光を帰した。」は、「獣の礼拝」との対比で語られていて、これが救いに至る信仰の始まりとなるからです。

動画 これぞ、リアル、リラックマ??


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動画の概要欄
2021年12月22日撮影/アメリカ・コロラド州スノーマス・ビレッジ
コロラド州スノーマス・ビレッジで家族と離れ離れになっていた1歳のクマが、冬眠の時期を忘れていました。彼は晩秋から初冬にかけて、私たちのポーチで昼寝をしようとしていたのです。動物管理局が来て、彼をチェックしました。彼らは、彼は大丈夫だろうと言い、彼が私たちを煩わせないのであれば、ただぶらぶらさせておくようにと言いました。結局、私たちが寝る時間までずっといたのですが、朝にはいなくなっていました。私たちは少し掃除をしなければなりませんでしたが、それをすることができて嬉しかったです。このまま冬はどこかで眠っていてほしいものです。

クマった状態ですね。

ウッドデッキに置いてあるソファーで、子グマちゃんがおくつろぎになると言うのは、私の住環境ではイメージできないので、実際にその光景を目の当たりにしたら、目が点になるでしょうね。

家族とはぐれてしまったのでしょうか?

冬眠も、親からの「もう、寝る時間だよ」というご指導が必要でしょうね。

1歳の子グマとのことですから、初めての冬だったのかも知れません。

本当に、どこかで安心して、冬眠できると良いですね。

自然との共生は現実ですが、理想との乖離も大きくあります。

自分自身を省みれば、自然との共生はできていない方に位置するような感覚があります。

猿や鹿などは、見かけるのが日常と言う地域も、30分圏内にあります。それよりも、身近には、地域猫ヌートリア、イタチ、タヌキ、アライグマなども、潜んで暮らしているようです。

それらをシャットアウトするのが良いのか? 歓迎するのが良いのか? 思案のしどころです。

外来種という分類を適用すれば、駆除の対象になるのですが、野生のパワーを相手にして、ナカナカ難しいようです。

まあ、外来種を持ち込んだのは、人間だそうですから、そのとばっちりなのかも知れませんね。

共生は、お互いに「クマった状態」にならないことが、前提条件です。

共生、共有できる何かを見つける必要がありますね。