永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

信仰者の聖化 ロマ8:6-8 ヘブル10:36 栄化 ロマ8:18-39

『6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。(ロマ8:6-8新改訳2017)』

人間は死ぬまで成長と言いながら、コツコツと運動や学びに励む高齢の先輩に接すると、非常に頭が下がる思いです。

人間にとって身体を維持する大切な要素は、栄養、睡眠、そして、運動だそうです。このバランスが崩れると「健康の維持」が難しくなると聞きます。

これは、肉体に限らず、魂にも当てはまるのかも知れません。

【主】の愛を受け入れた瞬間に、信仰者には「聖霊バプテスマ」が与えられます。神の子とされ、御聖霊の内住があり神の宮とされ、永遠の生命がはじまります。

信仰者は、肉体的生命と永遠なる生命(霊的生命)に生きるコトになります。

これが、「無罪」とされた信仰者に対する新たな葛藤のはじまりです。「白い羊」と「黒い羊」などと例えられたりしますが、「肉の思いは死」と「御霊の思いはいのちと平安」の差でもあります。

この葛藤は、「聖化」と言われます。

あのパウロも自分自身が味わった、肉体にある葛藤を表現しています。

『36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。(ヘブル10:36新改訳2017)』

また、そのために「忍耐」が必要だとも記されています。

これは、信仰者が肉体的生命を離れる時まで続きます。その理由は、肉体的生命には「罪」の性質が付き物だからです。これは、切っても切り離し事ができないのです。

しかし、【主】の愛は、その「罪」と一体となった人間を、そのまま「キリストの衣」で包み込んで下さったのです。

ですから、肉体的生命から切り離された後に、【主】の前で「無罪」とされるのです。裏を返せば、この肉体の葛藤は、「肉体的生命に生かされていることの証明」とも考えることができます。

『30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ロマ8:18-39新改訳2017)』

信仰者は、肉体的生命の終わり「肉体的死」を迎える時に、天に移されます。または、生きているまま、イエス・キリスト自らが空中携挙される時に、召し上げられる信仰者はその瞬間に肉体的生命を脱ぎ去り、栄光の身体を与えられるのです。これを「栄化」と言います。そこからが、「永遠の幸福」のはじまりです。

動画 「気持ちいい」は表情に表れる 馬でも


www.youtube.com

恍惚の表情は、気持ちの良さから包み隠すこと無く表れてきます。

この動画では、マッサージされるお馬さんの表情を見ることができます。

何とも言えない気持ち良さを雄弁に語っているかのようです。

飼い主は、一番、気持ちよく感じる所を熟知しているのですね。

その表情を見ながら、笑い声を上げている飼い主さんがお馬さんよりも気持ち良さそうです。

これは、スゴく良好なコミュニケーションになっているようです。

これがあってこそ、人馬一体となることができるのでしょうね。

乗馬している場面も見てみたいです。

人生の中には「ウマく」いかない時もあります。

そんな時に、お馬さんとのふれ合いで癒やされると、次のチャレンジへの英気を養うこともできるのかも知れませんね。

人生の意味は問われている ビクトール・フランクル

『そもそもわれわれが人生の意味を問うべきなのではなく、われわれ自身が問われているものであり、人生がわれわれに出した問いに答えなければならない。 ビクトール・フランクル

八巻正治は自著『聖書とハンディキャップ』の中で「しかしフランクルとて、そうした強制収容所からの真の自由は、ドイツ軍の敗北によってしかなしえなかったのであり、(中略)個人の努力によっては、いかにしても解決のできない困難性や問題性も数多くあることは事実なのです。」

人生の大きな葛藤は、「個人の努力によっては、いかにしても解決のできない困難性や問題性」です。

これに対して、どのように向き合うかが、その人の人生を方向付けるのではないでしょうか。

このフレーズは、人間が抱く運命論的な「どうして?」という問いかけよりも、現実的に直面する自分の前にある壁に気づいたときに「さて、どうする?」と言われていると理解すれば良いのでしょうか?

少し、とんち気味な印象を感じますね。

「親ガチャ」という言葉が一般的になりつつあります。

「生まれてくる子供は親を選べない」という意味で、親に失望したときに、「自分は運が悪い」と感じる人が多くなってきた背景もあり、使われている言い回しです。

確かに、人間には、親だけでなく、その他の多くの要素が選べないものですね。

『夜と霧(ヴィクトール・エミール・フランクル著)』に記されていることは、その多くを表しているように感じます。

彼は、精神科医として有名ですが、脳外科医としての腕前も一級と言われるユダヤ人医師でした。

ナチスにドイツ人を治療することを禁じられ、任を解かれました。結婚の9ヶ月後、家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父がここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡しました。

フランクルアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放されました。

フランクルのロゴセラピーは収容される時点でその理論はほぼ完成されていて、自らの収容所体験が理論の正当性を検証することになったというのが正確な順序になります。
wikiを参考に編集)

多くの人は、自分が置かれた所に、失望感を抱き、絶望に至ってしまうという現実があります。

でも、その場所で、「さあ、これからどうする?」とか「面白くなってきたじゃないか!」と言う風に向き合ってみるのも人生の醍醐味なのかも知れませんね。

ヴィクトール・エミール・フランクル(ドイツ語: Viktor Emil Frankl, 1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリア精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、代表作は『夜と霧』である。

ja.wikipedia.org

鳥の鳴き声 快不快

「ホーホケキョ」という鳴き声を森の中できくと、自然の立体感と相俟って、心地良く癒やされます。でも、ほとんど姿は見せてくれません。ヘタな鳴き真似を口笛ですると、お手本を美声できかせてくれます。

「カー、クワー」などという迫力があるカラスの鳴き声には、不快感があり警戒心さえ抱きます。カラスの所業を見ているから嫌悪感が先立ってしまうのでしょうか?

同じ鳥なのに不思議です。

夕暮れに鳥が群れている場所にさしかかると、その迫力に耳を塞ぎ、すくにでもその場を離れたくなります。

「鳥は、なぜ鳴くの?」というサイトの説明によると、鳥が鳴き声を発するのは、メッセージを伝えるためです。

鳥の鳴き声は、大きく分けて“さえずり”と“地鳴き”の2種類があり、さえずりは繁殖に関わる声で、地鳴きは仲間同士の連絡のための声です。

たとえば、ウグイスの「ホーホケキョ」は、ウグイスのさえずりです。春を告げる声として人間は認識していますが、本来は、オスがメスへの求愛と縄張り主張するという二つの意味があります。

求愛するときは、優しくささやくよう鳴き、縄張り宣言するときは、力強く声量ゆたかに鳴くのです。人間が耳にするのはこの声だとか…。

参考サイト:鳥は、なぜ鳴くの?

鳥は、なぜ鳴くの? - 講談社の動く図鑑MOVE

これを聞くと、ヘタな口笛は、へんなおっさんのオスがやってきたので、追い払ってやろうと、お手本鳴きをしてくれているという理解ができます。

こんなことなら、聞いていて癒やされている方が、お互いに幸せなのかも知れませんね。

森に行かなくても、いろいろな鳥の鳴き声を聞けるサイトがあります。

自分にとっての癒やしの鳴き声を探してみるのも良いですよね。

認定NPO法人バードリサーチ
鳴き声図鑑
https://www.bird-research.jp/1_shiryo/nakigoe.html
バードリサーチ「スピードバーディング」 

資料集| バードリサーチ / Bird Research

高ぶりと破滅 箴言16:18

『18 高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18新改訳2017)』

人間は、自信が必要です。これは、自己受容し、自己確立という土台の上にある、等身大の自分という認識です。

でも、自分だけが一番だと考えると「高慢」となります。

これは、かつて「暁の子」と呼ばれたサタンをお手本としてしまいます。サタンは、天使の最高位ケルビムでしたが、その地位に満足しないで、【主】の上に位置しようと企みました。これが、聖書に記されている最初の「高慢」です。

人間は、なぜだか自分を大きく見せたがります。

それが、どれほどのものかは、周囲が判断するのですが、その人の等身大とかけ離れていれば、相手にされなくなります。

そうすると、自分を保てなくなり破滅へと向かってしまうのです。

時には、自分への問いかけも大切です。

自分が「高慢」な時は、どういう状況か? などですね。

孤立感を感じるときや自信喪失したときなど、もたげてくるのが「高慢」なのかも知れません。

自分を支えるために必要な自尊心と「高慢」は分けて考える必要があります。

ちょっとした表現でも、振る舞いでも、意識化して注意したいモノです。

信仰者の視点では、【主】との関係性です。

人間の努力では、「【主】の義」には、到達できません。

メシアであるイエス・キリストの唯一無二の犠牲を自分のためだと信じて、そのめぐみをいただく立場であることを思い返す事が大切なのですね。

ついつい、自分の「罪」は解決したと誇ってしまうこともあるのかも知れません。

ただ、【主】の前に、ひざまずいて感謝を捧げることしかできないのが人間なのですね。

この認識に、留まることができるように、日々の感謝を継続するのです。

そうすることで、「高ぶった霊」に向かうことを回避できるのです。

「高慢は破滅へ」、「高ぶった霊は挫折へ」向かうという悪循環は避けたいですよね。

沈黙は、雄弁 カーライル

『沈黙は口論よりも雄弁である。 カーライル』

このフレーズは、一見すると矛盾を感じますが、身の回りを思い浮かべると分かりやすいですね。

「夫婦げんかをして、一ヶ月間会話をしなかった」などと聞かされた人はいませんか?

まあ、それには、性格や心理作戦が関係しているので、良し悪しは分けて考えた方がよさそうですね。

「警戒警報」と考えた方が理解しやすいでしょうか。

あの人が沈黙すると、よほど、ご立腹だと感じる事があります。

これが、発散型タイプの人であれば、いつも「ブツブツ」あるいは「ガーガー」言っていたりするので、「あーまた言っている」という程度の捉え方を周囲の人は、するでしょうね。

どちらが、「警戒警報」の度合いが高いかというと、「沈黙型」の方が、圧倒的に緊張感があるのではないでしょうか?

「あー言えば」「こう言う」などという言葉のキャッチボールが成り立つ間柄は、ある程度良好な関係なのかも知れません。

このフレーズは、「英雄崇拝論」で取り上げられたものなので、その方面を考えて見る必要もありますね。

「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張で知られていますが、彼の言う「英雄」は歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指しています。

基本的に神は「沈黙」、帝王は最小限の言葉で威厳を示すように育て上げられたりします。

預言者、詩人、僧侶、文人などは、それぞれの表現方法によっては雄弁です。

でも、その中で一番威厳を感じるのは、「沈黙」を貫く神なのかも知れませんね。

聖書の【主】は、独自の方法で語られた事が記されています。でも、圧倒的に「沈黙」、つまり、人間から【主】の意図が理解できない期間が長いというのも、信仰を必要とする関係性なのです。

ペラペラ言葉数が多い英雄よりも、むしろ行動派の寡黙なタイプの方が、民衆の注目を集めるのかも知れません。「沈黙」は、ミステリアスでもありますからね。

今の時代に、表舞台に立っている有名人は、「演者」に過ぎないという指摘があります。あまりにも雄弁すぎるタイプが多いからなのでしょうか。その理由の一つは、原稿がある前提で読み上げるのが上手な人が選ばれているのかも知れないという疑念ですね。

内村鑑三も尊敬していたカーライルのフレーズでした。

トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 - 1881年2月5日[1])は、19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家。
スコットランドのダンフリーズ・アンド・ ガロウェイ、エクルフェカン(英語版)出身。
代表作には、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』、『過去と現在』などがある。ドイツ文学を研究したことでも知られ、ゲーテとの往復書簡がある。〈全集 The works of Thomas Carlyle〉は30巻に達している。

 

花のある風景は、エネルギーと癒やしになる

人間にとっての癒やしは、年を重ねていくと、変化をしていくようです。

興味の対象が「生物(動物)」から「植物」へと変化し、やがて「鉱物」に移るというケースを体験者から、教えてもらったことがあります。

その人の場合、ギラギラするほど若かったときは「動物」、それは「美しい女性」だったそうです。そして、植物は「蘭(ラン)」、やがて手間がほとんどかからない「奇石(化石)」になったそうです。

時の移ろいに合わせて、興味の対象を変えて、自分自身のバランスをとっていたのでしょうね。

動物相手は、動きもあり、相手の感情もありますから、対応が難しい部分があります。

そこで、「植物」なら自分から動くことはないので、水分や栄養をケアすれば、付き合えるように思います。

しかし、現実は甘くないと言うのです。

日常的に、愛情を注ぐ事によって、花の咲かせ方も違うし、それを怠ると枯れてしまうこともある。

ただ、日常的に愛情を注ぐ事によって、エネルギーや癒やしを得る量は増えると言います。

実に不思議な関係性です。

栄養や水は、多くても少なくても、良くないようで、様子を見ながら、適量のさじ加減が大切なのだとか。

料理レシピなどで見かける、あの「適量」という考え出したらキリの無い領域です。

植物に限らず、人生は「適量」を探る正解のない旅でもありますね。

さて、自分で植物をケアしなくても、植物園などで鑑賞する方法もあります。

身近な所では、とあるお宅のお庭ですね。

季節になると、お手入れが行き届いた植物が、咲き誇っています。

それらを見て、癒やしとエネルギーをもらっている人も多いと思いますよ。

パソコン作業の合間に、庭に目をやると家族が手入れしている植物のお花が咲いていると言うだけで、リラックスできますよね。

オフィスの机上に、ほとんど手間がかからない多肉植物を、置いている人もいるようです。

たまには、LEDの光るスマホやPCモニターから目を離し、身近な「花」や「緑」で、リラックスして目を癒やし、リフレッシュしてみることを心がけたいと考えています。