永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

合理化と利便性 やっぱり人の声で対応して欲しい気持ち

AI技術の発達によって、自動音声による対応が増えています。

合理化を進めた企業は、WEBのみの問い合わせというパターンもあるようです。

「よくある質問」を探しても見つからなかったら問い合わせて下さいという所も増えてきています。

確かに、同じような質問は、くり返し応答するというのは効率が悪いと判断しているのでしょうね。

結構、WEBサイトを探しても、解決ができない疑問があるモノです。

その様なことは、運良くオペレータに繋がっても、調べてもらって、電話をもらうことになったりします。

特に、感染症対応などで、テレワークが進んだり、人員を確保できなかったり、企業ごとに様々な苦労があるだろうコトも察しているつもりです。


でも、「人間の生の声で対応してもらいたい」との気持ちを抱いている人は増えているように思います。

携帯電話の料金も値下げの流れになっていますが、それと引き替えに、そのプランはサポートが有料、手続きは自分でオンラインのみなどになってきています。

料金の高止まりは、人件費を賄うためなのでしょうね。


通販商品で不具合があるモノが届いたときにでも、専用フォームから連絡しても、応答が無かったことがありました。販売業者のページを調べて、たどり着いた電話番号に電話をして、対応をしてもらいましたが、、電話をしなければ、そのまま「しばらくお待ち下さい」が待たされっぱなしになっていたかも知れません。

手間暇を厭わずに、必要な対処をしないと、未解決の課題が山積みになってしまいますね。

専用フォームからのメールも届かないことがあるので、何らかの確認が必要と心得ておく必要があります。

また、電話が繋がっても、ぎこちない日本語のパターンもあります。

対応スキルは、スゴく開きがあります。ぎこちない日本語でも、ツボを押さえた対応をしてもらえることもあります。

言語化のサポートのマルチ対応が必要な時代の課題もあるのでしょうね。


何かと「ブツブツ」書いてしまいましたが、例えWEBのみでも、サポートが適切に対応してくれれば良いのです。

それが、信用を得るために大切なことなのですからね。

話題がその場を支配する 箴言14:3

『愚か者の口には、高ぶりへのむち。知恵のある者の唇は自分を守る。(箴言14:3新改訳2017)』

人が数人集まると何らかの会話をすることになります。

雰囲気をよくしようと、どうでもいい話、例えば、天気やお店の行列の話しなどをしたりします。

でも、人によっては、自分のコトを話したくてどうしようもない人もいます。

困ったパターンでは、質問攻めで、まるで事情聴取のようなコトもあります。

隠し事もなくアッケラカンと自分のコトを話す人は好感を持たれることもあります。でも、どこまで本当なのだろうという「?」もつくかも知れませんね。

それでも、利害関係がなければやり過ごせます。

噂話の類いは、聞き方にも注意が必要ですね。

「へー、そんな話があるんですか?」と聞いていれば回避できるはずが、「そうそう、あの人はこうでこうで…」と話題にのせられてしまうと、発信元だと認定されてしまいかねません。

客観性を持って聞いていると意思表示しないと、かえって巻き込まれるケースもありますからね。

その場で持ち出される話題にどのような意図が隠れているのかにも意識を向けたいですね。

自己受容ができていない人は、自己アピールに必死になる傾向があります。

その目的は、存在承認です。

自分は、こんなにスゴいのだから、認めて欲しいということですね。

「知恵のある者の唇は自分を守る。」と記してあります。

この人は、自己受容ができ、自分自身で存在承認ができているので、過度の自己アピールも自慢話もする必要がないのです。

自分が、優位に立ちたいと考えていると、「自分だけ」というワナにハマってしまいます。

そうすると、周囲には、誰も居なくなるということも多くあります。

より良い関係性を作り出すためには、自分と相手の位置関係を意識する必要があります。

謙遜を実践できれば、相手よりも少し下の位置に自分を置くことです。

また、相手との程よい関係を探り続けることです。

これらのウマくいくポイントが、心地好いのだと考えています。

個性の美 エマーソン

『すべての人には個性の美しさがある。 エマーソン』

自由信仰、個人主義などの雰囲気を醸しだしているエマーソンが記したフレーズです。

信仰と組織そして儀式は、いつの時代でもバランスが難しい一面があります。

創造主である神の恵みと個人の信仰が結び合ってこそ、真の礼拝が成立するのです。

エマーソンは、それらに違和感を感じて、無教会派になった一人のようです。

日本でも、無教会派と言われる内村鑑三は、主の御名による集会や礼拝を否定しているわけではありません。生きている信仰ではない組織的・儀式的・政治的要素に対しての警告だったのでは無いかと、私は受け止めております。

このテーマは、人間の信仰を持つ葛藤として、肉体的生命を終えるまで続くことでしょうね。

「真の礼拝」を目指して歩む信仰者は、本当に幸福です。

エマーソンは、人間には、それぞれに「個性の美」があると言います。

「美」というと、見た目を過剰に意識する傾向があります。

でも、外見をどれだけ人工的に整えても、内面は、何らかの形で露呈してしまいます。

「見た目が9割」という考え方に立てば、姿形が占める要素がほとんどですが、それは、やがて飽きられてしまうのではないでしょうか?

大切なのは「個性」と「味」なのかも知れませんね。

それぞれが、授かった天賦のモノに焦点を合わせると、全く違う魅力(個性の美)に気づくことができます。

外見だけに、目や心を奪われずに、「個性の美」にフォーカスしていきたいと考えております。

 

アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。娘のイーディス(Edith Emerson)がウィリアム・ハサウェイ・フォーブス(英語版)と結婚し、エマーソン家は一層格式の高い門閥となった。…アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。

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手放してみてわかること 手放す体験は貴重

手放すことは、心情的な苦痛が伴うことがあります。

あきらかに不要なモノなのに、心理的な抵抗で、手放すことができないケースがあるのです。

「まだ、何かに使える(かも知れない)」

「もったいない!!」

という「今は亡き人の声」が心に響くのだそうです。

そうでなくても、学生時代の教科書を数十年も残しておくケースも多くありますから、何かの心理的な抵抗が関係しているのでしょうね。

全部ではなくても、その一部でも手放してみると、その空間が解放された光景と共に、心の一部が軽くなるようなイメージを私自身感じたコトがあります。

私は、自分のモノだけではない片付けの現場をいくつも体験していますが、関係性が希薄な方が、客観的にお手伝いできる印象もあります。

関係性が濃くなると、客観性を欠き、感情的になることもあるので、片付けのメンバーの人選も大切な要素だと思います。

皆さん、共通してお困りなのは、故人の信仰していた宗教に関する本やモノです。

それらをゴミに出すのは抵抗があるようで、引き取りを依頼されることもあります。

さて、自分自身の片付けに話を戻します。

今の自分に必要不可欠なモノを選び出す感覚が大切なようです。

それまで当たり前だった環境を手放すことと言った方が分かりやすいですね。

でも、それは、お金の使い道と同じような要素で、自分に与えられているスペースの使い道も自由自在すぎて、どうしたらよいのか分からなくて混乱に陥るのでしょう。

限られたスペースを有効に使うという試行錯誤の旅のはじまりです。

その旅に、何を連れて行くかと言う発想で、マインドを切り替えていこうという考え方で進めていきたいですね。

創造主である神の愛の啓示 ヨハネ14:6 使徒4:12

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6新共同訳)』

『ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12新共同訳)』

 

「この道だけ!」と言われると、閉塞感を感じてしまいますね。

でも、罪からの救いについては、これが基本なのです。これしかないのです。

神の正義は、キッチリしています。

それに伴って、神の誠意も完璧です。

多神教の環境に住む人には、非常に理解しにくいイメージかも知れません。

そもそも、イスラエルの民でも、出エジプトをしてから、モーセシナイ山で律法授与をしている最中に、見える偶像である金の子牛をつくった事件がありました。

人間の中にある不安が、そのようにさせるのですね。

そして、その不安の根元には、自分には為す術がない「罪」が横たわっているのです。

その「罪」を解決する道筋の話しです。

これは、全人類に誰一人、もれることなく提供されています。

そして、何の代価も求められていません。

創造主である神の恵みによって提供され、信仰によってのみ受け取る事ができるのが「救い」です。

何から救われる必要があるのでしょうか?

それは、「罪とその先にある死」からの救いです。

人間は、「不安」を感じるのは「罪」、その影に「死」が潜んでいるのが、とても恐怖なのです。

「罪」を解決しないと、「死の恐れ」による奴隷状態が永続するのです。

「罪」の問題を解決しても、肉体的生命に生かされている間は、「罪」が切り離される訳ではありません。

でも、信仰によって、義とされていると、肉体的生命を閉じるときには、「無罪」とされ、永遠の幸福へと召し上げられるのです。

この問題は、全人類、それぞれの自由意思に委ねられています。

それぞれの自由意思で、肉体的生命に生かされている間、自分の自由意思が発揮できる間に決断をすればよいのですね。

動画 リスは格闘家だった衝撃の動画


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この動画は、リスの意外な一面を見せてくれたように感じています。

リスはすばしこく、樹の実をモグモグ食べているようなイメージしか持っていませんでした。

でも、この動画では、ぬいぐるみと、取っ組み合いをしているのですね。

自然界に生きているのですから、それぞれの縄張りを守る必要もあるのでしょう。

動きが速いので、撮影者が動画を撮るのに苦労したのかな? とも想像します。

ボディコンタクトは、闘争本能と言うよりも、防衛本能では無いかと考えています。

でも、本当のところはどうなのかはわかりません。

リス独特の「スルッ、スルッ」という動きは、可愛く感じてしまいますね。

人間の動作でも、成人する前のごこちない動きが、とても印象に残ります。

よちよち歩きなどは、周囲の注目の的ですね。

成人した標準的な動作は、正常と判断し、特に意識しないですからね。

それを意識しだしたら情報処理能力を遙かに超えてしまいますね。

人間には、情報処理の容量が個人個人にあるようですから、それを自覚した上で、大切な所に焦点を合わせていきたいですね。

幸福になりたいなら J・S・ミル

『幸福以外のものを目的として生きるとき、人は幸福になれる。 J・S・ミル』

ミルは小さい頃から勉強が大好きだったようです。

記憶や知識の消化にも長けていたのでしょうね。

彼が21歳の時に「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態を体験したが、知人との親密な交友関係で乗り切ったとあります。

知人との親密な交友関係は、周囲からは、様々な目が向けられていたようですが、それにより生きる希望を得て転身ができたという事実は動かしがたいのでしょうね。

人間は、「幸福探し」「自分探し」に焦点を合わしてしまいがちです。

幸福は実感するものですから、どこかのお店に陳列されているわけではありません。

自分は、自己受容する存在に過ぎないので、探してもどこかに落ちているものではないです。

ですから、幸福に焦点を合わせるよりも、「生きる」ことに焦点を合わせるとマインドも変わることでしょうね。

人生は、時として、モノやお金に助けられるようなこともあります。

でも、それよりも「誰かに」助けてもらうコトの方が遙かに多いように感じています。

この事実を実感し、味わうことこそ、幸福への第一歩ではないでしょうか?

また、地獄のような気分の中に一点の天国を味わうことがあるように、不幸にドップリ浸かっている気分の中に一点の幸福があるようにも思います。

幸福を実感するセンサーを磨いていきたいですね。

 

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年5月20日 - 1873年5月8日)は、イギリスの哲学者。政治哲学者、経済思想家でもあり、政治哲学においては自由主義リバタリアニズムのみならず社会民主主義の思潮にも多大な影響を与えた。晩年は自ら社会主義者を名乗っている。倫理学においてはベンサムの唱えた功利主義の擁護者として知られる他、論理学分野においてはバートランド・ラッセルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期科学哲学の重要な哲学者として知られる。

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