永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

役割を終えた律法 ロマ10:4 ガラテヤ3:19

『キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。(ロマ10:4口語訳)』

『では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。(ガラテヤ3:19新共同訳)』

 

旧契約と新契約の境界線は、メシアであるイエス・キリストの十字架による死です。その瞬間、神殿の至聖所との手巾ほどの厚さがある隔ての幕が上から裂かれたのです。この印こそ、メシアであるイエス・キリストの命と全血が全人類の贖いとして、受け入れられた瞬間というコトになります。

そして、三日目に復活したことによって、信仰者に永遠の生命の扉が開かれたのです。

バプテスマのヨハネは、メシアであるイエス・キリストの先駆者として、旧契約時代の最後の預言者と評する考え方もあります。

聖書の分類で考えると、各福音書の十字架以前の記事は、旧契約時代というコトです。

それは、メシアであるイエス・キリスト聖霊によってマリアの胎を通り、受肉したイエス・キリストとして、十字架に向かう地上生活をされた記録を見せる必要があったからですね。

キリストが律法の終りとなり、義を確立させたのです。これこそ、前述した十字架上での唯一無二の犠牲としての役割だったのです。

律法は、全時代の流れから考えると、一時的に与えられたもので、それは、メシアの贖いにより終わったということになるのですね。

旧契約時代の人たちは、律法を守ることで、創造主である神に対する信仰を表していました。

でも、律法の最重要な役割は、メシアであるイエス・キリストに対する信仰に導くためだったのです。

それは、人間があらゆる手段を使っても、業による救いが不可能であることを示すためでもありました。

また、犠牲の動物自体が救いの方法では無く、血の犠牲の必要性が認識されることが重要だったのです。

メシアであるイエス・キリストが全血を注ぎ出されたことが、その贖いに不可欠だったことを示しています。

動画 コップの水がこぼれません 不思議な現象


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うーん、これは、ピタゴラ級の装置ですね。

物理の力を巧みに応用したジャイロシステムとでも形容すれば良いのでしょうか?

百聞は一見にしかずです。この動画を見てみてください。

自分自身の平衡感覚が鈍ってくると、コップをしっかり持っているつもりでも、気がつけばこぼしていることもあるでしょう。

介護施設でも、幼稚園などでも通用するとなれば、画期的な発明ですね。

うどん屋さんとかそば屋さんの出前システムがこのような原理を使っていましたね。

自転車やオートバイの荷台にジャイロシステムを固定して、どんぶりの中の汁がこぼれないようにしてありました。

基本原理は、対象物が重力に対して正体を保てるように配慮したというコトですね。

一度、本当に大丈夫か? グルングルン試してみたいですね。

自分を作り上げる大切さ 宮本武蔵

『あれになろう、これになろうと焦るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間に媚びずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる。 宮本武蔵

不動の自分を作り上げるというのは、人生の集大成を意識する人が発すると説得力が増すのかも知れませんね。

宮本武蔵巌流島の戦いのストーリーをなぞってみると、彼には、彼の型があり、彼にしかできない戦術で挑んだというイメージを私は持っています。

恐らく、宮本武蔵はこれを実践していたのですね。

人間は、目の前の課題をクリアするために、カンニングをしてでも、取って付けた答えを探して、終わらせようとする一面があります。

でも、それをクリアしたとしても、次の課題はやってくるのですから、ヘタに安易な課金で乗り切るクセをつけていたのなら、いくらでも、強力アイテムにお金を吸い取られる羽目になってしまいますね。

宮本武蔵は、そのような風潮を感じてかは分かりませんが、警鐘をならしていたのだと感じます。

泰然自若という言葉があります。「落ち着いてどんなことにも動じない」という意味で使われます。

人間は飽きっぽいし、気持ちはコロコロ変わりやすいので、周囲から見ても、挙動不審だと見られることもあるでしょうね。

大切な要素が、もう一つあります。

それは、もう一人の自分との付き合い方です。

無意識な人が圧倒的に多いですが、自分の行動を制限しているのは、周囲の誰でもなく、もう一人の自分だというのです。

大切なパートナーを意識しても、誰かの評価を気にしても、最終的に決断するのは自分自身ですからね。

自分が、どう評価されたいとか、自分がこのようでありたいとか、思い描くのですが、その葛藤が一番エネルギーを使い込んでいるのです。

宮本武蔵の指摘を適用してみると、自分が居て、もう一人の自分が居る事実を意識化するコトからスタートですね。

何がどうなっても、自分は自分なのだという意識を積み上げていくと、周囲からどのように見られているかを意識しなくて済みます。

この領域こそ、泰然自若というか、不動の自分なのではないかと考えています。

その状態を見て、周囲は、今までと違う自分を感じてくれるコトでしょう。

庭の緑と花は生活の潤い

「隣の芝生は青い」などと言われますが、自分の家の庭となると、自由にアレンジできるはずなのに、現実は四苦八苦でままならないと考えている人もいるのではないでしょうか?

家族の中で、誰かが、庭の手入れを率先して行ってくれていると、家全体にも潤いがあるように感じられます。

土いじりをしていると、気持ちが落ち着くという話をよく聞きます。

でも、現実は、かなりの根気とやる気、そして、思いっきりが必要のようですね。

誰がマネージメントするかを決めておいて、家族の希望を伝えておくのも良いかも知れませんね。

それぞれで、好き放題に庭いじりをし出すと、家庭内紛争の火種にもなりかねませんから、気をつけた方がよさそうです。

手入れをしてくれる人と、愛でる人とのチームわけも上手くいくのかも知れないと考えています。

ついついバタバタしていると、庭を見ているゆとりさえ無くしてしまいますから反省です。

そんな時に限って「花が咲いているのに、庭を見ていない!!!」と、お怒りのコトバを頂戴したりします。

誰かが、心のゆとりを失いかけていると、家族にもそれが伝わっていくのでしょうか?

庭は、せっかくの潤いのスペースですから、有効に生かしていきたいですね。

ご近所の潤いにつながって、コミュニケーションのネタになると一石二鳥ですよね。

わきまえと知恵 箴言9:1-4

『知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、いけにえを屠り、ぶどう酒を混ぜ合わせ、その食卓も整え、侍女たちにことづけて、町の最も高い所で呼びかけさせた。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。また、良識のない者に言った。(箴言9:1-4新改訳2017)』

生きて行く上で、必要不可欠なものは、お金や知識もその一つの要素ですが、それ以上に大切なものにだんだんと気付いていきますね。

お金があっても、それをマネージメントできなければ、生命の維持も、快適な環境を手に入れていくこともできません。

知識やお金を生かしていくには知恵が必要不可欠です。

また、自分が何者であるかをわきまえること(良識)ができると、自分の立ち位置を生かした、良好な関係性などを見出していけます。

箴言には、賢い婦人と愚かな婦人の例えが出てきます。これは、やがて、大きな差を生むことになります。

同じような環境、同じような食材があっても、マネージメントができていなければ、環境を整えることはできません。

その良い環境への招きがここで記されています。

しかし、そこへ足を踏み入れるためには、謙遜になる勇気が必要です。

自分のプライドとの戦いを征して、謙遜になれたら、次のステップに進むことができますね。

学ぶ環境に身を置くこと、そして、真剣に、一心不乱に学ぶ続けて、実践することを通じて、わきまえと知恵を獲得していくことができるのです。

学ぶ機会は、あらゆる所にありますから、センサーの感度をあげながら、そのチャンスを生かしていきたいですね。

心を弾ませるモノ ギマランエス・ローザ

『勇気とは心をはずませるものである。 ギマランエス・ローザ』

四面楚歌という状況は、四方を敵に囲まれた状況を示しています。

その様なときに、多くの人は、最早これまでと、失望から絶望してしまうかも知れませんね。

孤立無援だと感じれば、そのように考えるのも無理はありません。

でも、イスラエルの二代目の王になったダビデの少年時代は、一味も違いました。

その時、ペリシテ軍と対峙していたイスラエル軍が、ゴリアテという大男の挑戦を受けて、硬直状態になり、サウル王から家臣まで、打つ手が無いと思い込み、絶望に震えていました。

その時のダビデは、少年で自らは出兵して居らず、出兵していた兄への差し入れを持参して、その現場に遭遇したのです。

軍としての戦いが未経験のダビデ少年が、羊飼いとしての経験を持ち、ライオンやクマと倒したことがあると言っても、王たちの不安は拭えませんでした。

でも、もう一つ、少年ダビデには、創造主である神に対する純粋な信仰と信頼があったのです。

それこそ、少年ダビデの勇気百倍の源になっていたのです。

その勇ましさに、サウル王は少年ダビデゴリアテとの一騎打ちの相手として送り出すことにしたのです。

王は、武器も武具もないのは哀れだと感じて、せめて自分の鎧を使うように促しますが、それは、少年ダビデにとってはブカブカでした。

少年ダビデの使い慣れた得意技は、石投げ器(パチンコとも言う)でした。普段から羊飼いとして羊を守るために使っていたアイテムです。

適切なサイズの小石を拾い、ゴリアテの前に挑み出たのです。

大男のゴリアテは、王では無く、勇者と言われている者でもない、少年ダビデを前にして、あざけり笑いました。

でも、創造主である神の御名により戦いに挑んだ少年ダビデは、石投げ器でゴリアテの眉間の動脈を射貫き勝利したのでした。

この場面では、イスラエルの民の中で、勇気で心を弾ませていたのは少年ダビデ一人だったのですね。

勇気を持つということは、自らを奮い立たせるためには、大切な要素です。

何を根拠に、何に対して対峙するのかをよく考えて、挑みたいと考えています。

基本コストを考える 教育費など

教育費をかければ良い暮らしができるという時代がありました。

官僚や士業、開業医、一流企業に採用されれば、一生安泰という路線です。

しかし、今や士業の資格を取得をしても、仕事が取れなくて、会費や事務所経費を賄えないので、携帯一本で営業していたり、それさえも無理なので、士業の登録さえしてない人が存在する時代なのです。

人生の一面は、サバイバルゲームですから、激しく言えば、イス取りゲームでありお金の奪い合いでもあるのですね。

例えば、薬剤師の資格を取るために2500万円かかるケースがあります。これを、時給2500円で換算すると10000時間に相当します。もし、一日8時間働いたとして、月20日稼働だと5年3ヶ月が回収ラインになります。一日4時間の計算だと、この2倍の期間がかかる計算ですね。

今の時代は、子が自ら奨学金を借りて学び、卒業後に40代前半くらいまで返済をする人が多くなっています。

それに加え、車や住宅などの費用を考えると、相当のやりくり上手でなければ、切り抜けるのが難しいですね。

ある人は、専門学校を卒業して、一流と言われる旅行会社に就職したものの、会社の業績不振により、退職することになりました。つまり、奨学金の返済だけが残ることになりました。

学業の機会は、インターネットの普及で、格段に広がっていますから、高卒で就職しても活路は開いていける可能性はあります。

仕事をしながら、学びをして、徐々にステップアップをしていくという堅い方法もあります。

時代に合わせた、学び方、合理的な教育方針が必要だと感じています。