永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

人間はみな死刑囚 ビクトル・ユーゴー

『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ。 ビクトル・ユーゴー

人間は致死率100%と言われます。

人間が与えられている肉体的生命は長くて100年、それ以上の方も居ますが、研究者の中では、120年寿命説もありますね。

日本でも平均寿命が80代となっています。平均を超えると長寿とされ、90代でお亡くなりになると「大往生」と言われたりします。

聖書的な解釈では、最初の人間アダムが罪を犯したので、それが、DNAとして子孫に引き継がれていると言う事なのですね。

そのような自覚がない善良だと思っている人たちは、「死刑囚」と評されると、不快感を持ち、ある人は憤慨さえもするコトでしょうね。

でも、肉体的生命は有限なものであることは、人間ならば受け入れていく必要があります。

自分が何歳まで生きながらえるかをイメージできるモノではありませんが、その限りを満喫してエンジョイしていきたいですね。

恐怖の呪縛は絞まり続ける

コワいと感じるのは、身体を守ろうと考える防衛本能のなせるワザなのですが、必要以上に恐怖を感じてしまうこともあります。

トラウマなどとも表現される恐怖を感じる体験だったりとか、重要なコトを分からせようとした教育的なアプローチが、結果的にほとんど恐怖だけ植え付けてしまったなどの残念な例もあります。最近、トラウマなんてないのだとも言われるようにもなりましたが、ショッキングなほどの初体験は、鮮明に残りますから、トラウマと言わなくても、その後の判断に影響を与え続けるコトになるのだろうと考えています。

人生の中で、危険を回避するために、有効な手段を備えて、考えておく必要はあります。

しかし、自分を防衛するための最適化も考えておく必要もありますね。

感染症の流行の中で「正しく恐れましょう」などと言われました。

それは、恐怖に感じるモノゴトの正体を知ることも大切です。それが分からないと、ただ、コワいからと、ひたすら閉じこもって、一歩も外に出られなくなります。このスパイラルループに入り込んでしまうと、真綿で首を締め付けられるように、恐怖という縄で縛り付けられてしまうのですね。

そして、必要な対策をするコトで、どこかで、一線を引くことができて、感染を回避するという結果を得ることができるのでしょうね。

感染症の場合は、一番重要な要素は、「手洗い」で、「汚染の可能性がある手で、目・鼻・口を触れない」と言うことのようです。あとは、「食べ物」や「飲み物」に気をつけること。

予防措置として、「酸欠にならない」ようにすることと、「日光浴でビタミンDを確保」することなども大切なようですね。

そのような心構えで行動すれば、恐怖に支配されずに済むのでしょうね。

モーセの逡巡 「私は何者?」 出エジプト3:11-12

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出エジプト3:11-12新共同訳)』

出エジプトのために、ミデアンでモーセを召命しに来た創造主である神とモーセの対話の部分です。

モーセは、生まれてまもなくナイル川に葦の舟に浮かべられ、エジプトの王女に養子として育てられました。多くの人とは明らかに違う人生を歩むことになった人です。エジプトで最高の学問を学び、40歳まで王族の一員として過ごしますが、争いごとに介入して、殺人をするコトになりました。その動機は、奴隷状態だったイスラエルの民を少しでも助けようとした純粋なものですが、そのアプローチは、イスラエルの民にも受け入れられず、ミデアンに逃げる以外に、当時のモーセには選択肢を見出すことができなかったのです。

そして、ミデアンで40年、羊を飼いながら、それなりに穏やかに過ごしてきたところだったのです。

モーセは、「どうして、私なのでしょうか?」と言う気持ちから、このフレーズが飛び出したのでしょうね。その背景には、高等教育を受けた王族の一員だったときならまだしも、今は羊飼いに過ぎない。杖くらいは持っているけれど、相手にするファラオは、最高の権威をもって、強力な軍隊を率いている。今のファラオは、当然、モーセのことを知らないだろうから、「お前は何者だ」と言われるだろう、自分でもその様にしか考えられない。

また、イスラエルの民は、エジプトでは奴隷にされていて、大勢いても、武器は持ち合わせてもいない。しかも、40年前に、助けようとしたイスラエル人に拒否されている記憶もあり、双方から「お前は何者だ」と言われるようなイメージしか湧いてこなかったのですね。

それに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と、神の力に疑問を抱くモーセに対して、保証を与えています。そして、近い将来に「シナイ山イスラエルの民が、創造主である神を礼拝するようになる」という印まで示されています。

歴史の節目節目で、約束の民を抹殺しようとするサタンの企みがあり、それが実現しなかったというイスラエルの歴史こそ、創造主である神が今日にも示されている証明です。

動画 便利に気づいたワンちゃん


Doggy Obsessed With Water Fountain Toy || ViralHog

お利口さんと言われるペットの代表格のワンちゃんですが、最近は、技術の進歩に伴い、様々な便利グッズがあります。それに、対応できるような知能も育まれているようなイメージですね。

「どこをどのように触ると、どうなるのか?」を探りながら、そのグッズのメリットを生かすのですから、正に、お利口さんですね。

この動画では、あるところを押さえると、水が出ることを発見したワンちゃんが、その水を美味しそうに「がぶ飲み」する姿が収められています。

水が苦手なネコちゃんなら、ダッシュで一目散に逃げ出してしまうのかも知れません。

いとも簡単に、家族の序列も判断するワンちゃんならではの、知恵を発揮したというところでしょうか。

人間は考える葦 パンセ

『人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。 パンセ』

「人間は考える葦である」というフレーズはあまりにも有名ですが、これには、前置きがあったのですね。

なんと「自然の中で最も弱いものである。」と評されているのですからね。

人間には、この地上を治める役割を与えられて創造されたのです。でも、自然界の営みは、人間が仕掛けているのでも、維持しているのでもなく、すべては、創造主である神に因るモノだと、私には意識させられます。

自然界の中で一番弱い人間だからこそ、その位置に置かれているのかも知れませんね。

ほ乳類でも、生まれて数時間もすれば、自立歩行ができる動物が大半です。自立歩行するまでに、約一年を必要とするのも、一つの弱点なのかも知れませんね。一人で行動できるまでにはもっと期間を必要としますね。

成長に時間をかける人間は、知識を獲得し、知恵を授かる要素もありますから、適材適所という理解もできますね。

現代社会でも、人間が自然を破壊しているという指摘はあっても、自然のために貢献している例は、極々僅かなのでしょうね。

少しでも、考える葦としての役割が果たせたとしたら嬉しいですね。

変えること変えないこと

気がつくと机の上が、モノで埋め尽くされているという人は結構いるかも知れません。

何を隠そう、筆者もその一人です。情報の整理整頓が不得手な方です。

どこかに、しまい込んでしまうと、その存在を忘れてしまいがちなので、その案件が終わるまでは、目に触れるところに置いておきたいタイプです。案件が終わっても出続けているという指摘もありますけれど…。

また、忘れがちな部分をフォローしようと、自分なりにリマインドメモをするのですが、それらが堆積することもあります。

「何がその時に必要なのか」から、「一つの選択」としてそのようになっているのですが、より良い方法を探っていきたいと日々考えています。

人間が習慣化したモノは、そうそう変えられない部分も実感しています。

当然のことながら、変えなくて良いこともあります。良い習慣は改善しても変えてしまう必要はないですね。

大切なのは、ニーズに合わせて柔軟に対応していくというイメージを持つようにしています。

正確性と迅速性は、反比例する要素もありますね。この場合は、できあがりの具合を見て判断する必要がありますね。

早くできても、雑すぎるクオリティーでは、目も当てられませんからね。ソコソコのクオリティーを実現できるポイントを探る事が求められますね。

そのために、キープすることと改善することを、ザックリですが、洗い出しています。

試行錯誤を繰り返しながら「トライ&トライ」ですね。

人生の荒野の中で 申命記8:2

『あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。(申命記8:2-4新共同訳)』

イスラエルの民は、奴隷にされていたエジプトから出て、創造主である神が備えていた「約束の地」にたどり着くまでに、約40年の年月を必要としました。

ここの記事は、それを回顧しています。

歩いても約二週間と言われる距離ですが、その中を行ったり来たり、彷徨っていたのです。ただし、それは、創造主である神が共にいるという保証付きの旅路でもあったのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」と記されているフレーズは、非常に多くの人が知るモノです。

この要点は、人は食物だけではなく、創造主である神によって生かされているとの意味ですね。

その保証が表現されているのは、「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」とあるように、衣食住と旅の保護もあったことを表現しています。

人間は、欲望が満たされない今ココにないものを強請りますが、必要十分なモノは備えられているというコトに目を向ける必要がありますね。

現代に生きる人間にとっても同様です。

人生自体が長い旅路です。ストレートに、安住の地にたどり着いて、ずっと平穏無事に暮らす人は、極々、少数派ではないでしょうか?

それぞれのより良いことや、信仰者として備えられた安住の地を確信することまでには、荒野の旅路がずっと続くのです。

どうせなら、創造主である神と二人三脚で歩む方が安心ですね。