永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

釣るのか釣られるのか?

魚釣りは、釣れると楽しいモノです。しかし、それは素人の感想だと、釣り師からは説かれます。つまり、「釣れるか釣れないか、魚との駆け引きが醍醐味なのだ」とか?

奥深いモノなのだと感心します。

釣りには、結構コストもかかるので、食用のモノは、必要に応じて魚屋さんで購入した方が良さそうだなとも考えてしまいます。

客観的に観察してみると、魚釣りには、釣り師を引きつける魅力があることや良い装備にコストを惜しみなく注ぎ込ませるほどの魅力があるのだろうと感じます。

これは、釣り師VSお魚さんの「釣るか釣られるか」の戦いの構図も浮かび上がるほどです。

不思議なものですね。

コツコツと善を行う姿勢 ガラテヤ6:9

『たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9新共同訳)』

「善」とは何でしょう? 「道理に適った」というような意味がありますね。

有限な人間にとっての完全な「善」は、決して完全ではありません。でも、「できるだけ善」を行う姿勢を勧めるフレーズだととらえています。

軌道修正をしながら「善」をコツコツと積み重ねていく姿勢が結実し、収穫に至るというのです。

私にとってハードルが高いと感じるのは「たゆまず」と「飽きず」です。

言い換えれば、「いつも」「もういいや」と言わずに、果たして今、行おうとしていることが「善」なのかどうかをチェックしながら、「コツコツかつコツコツ」継続するということですね。

これには誘惑やストレスが付きまといます。「もっと楽な方法があるとか?」「こうすれば、もっと儲かる」などです。適度な利益は必要ですから、健全に継続できることも考える必要があります。

これらを念頭に置きながら「善」を「コツコツかつコツコツ」行うのには、不断の鍛錬も必要なのですね。

動画 ネコちゃんの激しい訴え


Kittens Claw At Door When They're Hungry

「あけてー」が、だんだん「あ・・・け・・・て・・・ー・・・」に変化していくようなイメージでしょうか?

行動派のネコちゃんは、活発に動きますから、専用の出入り口がない場合、こんなことになります。

温かい地域では、潜り戸などを設けておくと大丈夫なのですが、寒い地域で傍観を考えると状況が変わりますね。

この必死な姿を撮影している飼い主に怒りさえ感じているかも知れませんね。

何か、お願い事がある時に、この作戦を試してみます?

経験は特権 アベ・プレヴォ

『経験というのは誰にでも自由に与えられる権利ではない。それは「偶然」が与えてくれた特権なのだ。 アベ・プレヴォ

人生は経験の積み重ねですね。

その中で、自分から積極的にした経験はどれくらいの比率でしょうか?

おそらく、わずかなのではないでしょうか?

このフレーズにドキッとさせられたのは、『「偶然」が与えてくれた特権…』という部分です。

「人生は偶然ではなく必然だ」というフレーズもありますが、ここで取り上げる「偶然」は、「人間の意としないところ」という意味合いだと考えて受け取っています。

自分で志願した経験でなくても、日常の不思議な巡り合わせで得る体験が、経験値として積み上がっていくという流れなのです。

創造主である神の摂理では必然でも、それを予期できない有限の人間には偶然として受け止める以外にないという現実がありますね。ですから、その偶然の経験を新鮮に感じ、それを特権と感じられるのですね。

水槽の中から見られる観客

水族館に行っていつも感じるコトがあります。

それは、水槽の中にいるお魚さんの視線です。結構、水槽越しにお魚さんと見つめ合ってしまいます。そうすると、お魚さんは私をどのように感じているのだろうと考えます。

「えさ代を運んでくれる人だ」だと感謝をしてくれるわけではないですね。

筆者は、お魚さんは「今日も変わった動物がいるなあ」と感じているのではないかと思うのです。

生き物同士ですから、互いに生きていることは認識できているでしょうね。明らかに、挙動は違うのですから不思議に感じているのはお魚さんも同様のように考えてしまうのです。

つまり、水槽の中を見ているつもりが、逆に見られているという現実があるのですね。

キッと、次々とくるお客さんを見ているお魚さん達は、退屈しませんね。

知恵を受け止める姿勢 箴言11:2

『高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。(箴言11:2新共同訳)』

自立して自信を持って生きることは大切です。

しかし、自信過剰になると高慢になってしまいます。高慢は孤立へとまっしぐらです。孤立は、軽蔑されることよりも、高慢になった側が軽蔑することからはじまるのではないかと筆者は考えています。

高慢な状態は、自己防衛の意識も強いですから、周囲は過度の刺激を与えないように、細心の注意を払って接しようとしますから、距離も遠くなります。さらに、風通しも改善が見られなければ軽蔑という状態に至るのでしょうね。そこに至らないうちに高慢の座から降りられると良いですが、意地やプライドが邪魔をして、簡単には降りられないのですね。

一方、謙遜な状態を保つことができれば、あらゆる状況に共感することができます。それによって、暖かい共同体イメージで、孤立と逆の方向性を実現できるのですね。

さらに、「謙遜には知恵が伴う」と記してあるのも嬉しいことですね。

自分を俯瞰できるドローン的な客観的な視点を育みたいですね。

アベこべな内外 親鸞

『賢者の信は、内は賢にして外は愚なり、愚禿(ぐとく)の心は、内は愚にして外は賢なり。 親鸞

発信する人が違うと有り難みも増すのでしょうね。

外見を見て、あの人は賢者の風格をしているからと見てしまいがちですが、その実は違うこともあります。その状態を表現したフレーズですね。

人間は、外見を見て判断をしてしまいがちです。「見た目が90%」という要素もありますから、外見も気をつかう必要があるのですね。

しかし、このフレーズを応用して考えていくと、自分の心に多くの比率を用いるのが大切なのでしょうね。

家の掃除に例えて考えると、中の生活環境にほとんどを費やし、外部は汚れが気にならない程度にということでしょうかね。

装いを豪華にする場合は、心もつり合いが取れるようにすれば良いのですね。

そのバランスが、悩みどころですね。