永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

義と平和

『 ◆信仰によって義とされて
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ロマ 5:1-2新共同訳)』

「義」という感じは「羊」の下に「我」と校正されています。これは、旧約聖書に記されている犠牲の生け贄(羊など)に由来します。

イエス・キリストが十字架に架かる前の旧約時代には、そのひな型として、幕屋や神殿で、規定に基づく犠牲の生け贄を捧げることが、信仰の表明になっていました。

つまり、「我」と「神」の間に「羊」を捧げることで「義(正しい)」と認められたのですね。これは、やがて、バプテスマのヨハネをして『…イエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29新改訳2017)』と言わしめたイエス・キリストこそが、本命の唯一無二の生け贄(羊)だったのですね。

その犠牲が神に受け入れられると「義」とされ、それが、受け入れられないといつの日にか怒りが降って来るのです。創世記では、カインとアベルが捧げ物をして、アベルの生け贄は神に受け入れられたのですが、カインの捧げ物は受け入れられませんでした。これは、神が命じたとおりのモノを捧げなかったからですね。

「義」とされると「平和」を得ることになります。しかし、「平和」に至らなければどうなるのでしょうね。

しかし、非常にシンプルな話、信仰によって義とされ平和を得られると提示されています。ですから、それを有難く受け取れば良いということですね。