永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

傾聴は言語を超越する

「全身を耳にして聴く」というような集中力はナカナカ培えませんが、傾聴のキモは言葉や文章を理解すること以上に、それに乗って出てくる気持ちを感じることにあるようと考えています。

ですから、極端な言い方をすれば、ことばや文章を理解できない方が、同じ人間としての気持ちを感じることができるのかも知れません。

実例として紹介されていました。

『…日本にいるアメリカ人宣教師です。この宣教師はカウンセラーでしたが、日本に着いた当初は日本語を全く話せませんでした。にも関わらず、彼がカウンセラーだと聞いた日本の牧師に、ある一人の悩みを抱えている女性の話を聴いてあげて欲しいと頼まれたのです。この宣教師は、とにかくただ彼女の話に耳を傾けましたが、彼女の力になれたのかどうか分かりませんでした。数日後、その牧師が興奮気味に彼にこう言ってきました。「何をしたのか知らないけど、彼女はすっかり元気になりました!」(なぜ良い人に悪いことが起こるのか…p52矢吹ケン・中川洋共著)』

具体的には、様子は記されていませんが、説明にある情報で想像をすると、全身を耳にして、気持ちを感じながら、寄り添っていたのでしょうね。

人の話を聴いていると、ことばや文章に興味を惹かれて、本当の気持ちを感じられなくなることもあります。でも、大切なのはその人の気持ちなのですね。

コミュニケーションの達人と言われる人もいますが、言語よりも、相通じる何かを感じ取れる要素が、そのようにさせているのかも知れないですね。