永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

知恵の勧め その壱

『「いつまで 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち 不遜な者は不遜であることを好み 愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう。しかし、わたしが呼びかけても拒み 手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし 懲らしめを受け入れないならあなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い 災いがつむじ風のように起こり 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」(箴言1:22-27)』

創造主である神の「懲らしめを受け入れる」か否かが、境界線だというのです。

また、「わたしが呼びかけても拒み 手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし 懲らしめを受け入れないなら」とも記されています。

神の応答と呼びかけは、懲らしめとセットとして記されているので、人間にとっては選ぶのが難しくなりますよね。

でも、それを受け入れるなら「わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう。」とのことなので、これを、選択するのにも知恵が必要なのでしょうね。

創造主である神の呼びかけは、絶えずあり、知恵と救いが提示されているのですから、このチャンスを生かすのは、人間次第と言うことになりますね。