永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

人間は愛された存在

『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10新共同訳)』

愛された実感が無いという人にとっては「愛」はピンとこないでしょうね。ましてや、「究極的な愛」のお話となればなおさらですね。

「命をかけて愛する」という気持ちでいても、そのようにできないこともありますね。

人間は、創造主である神に似せて被造された存在です。ですから、いのちの源である神は「究極的な愛」を発揮する対象としては、むしろ当たり前なのですね。我が子を愛する人間のように、それにも優って愛を注ぎたい対象なのです。

人間には、いのちの源である神の存在を意識していない状態では、理解できない話ですね。

神は私たち、一人一人を愛してくださっています。

そればかりでは無く、人間が壊してしまった永遠の幸福への橋を、御子イエスキリストを犠牲にすることによって、「愛の架け橋」を備えてくださったのです。

これこそが「究極的な愛」なのです。

この愛を知り、それを命懸けで伝えたパウロは、まさに命を差し出して、その生涯を閉じることになりました。

その他の弟子たちも、同じような最期を遂げました。

信仰者の中にも、平穏に肉体的死を迎える人もいますが、そうではない人もいます。

どのような最期であっても、信仰者の未来は、「究極的な愛に包まれた永遠の幸福」なのですね。これに包まれて、永遠の世界に解放されていくのです。