永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

親の勘当があるなら逆も…疎遠になるにも理由がある

子どもが親の気に入らない行動をすれば「お前は勘当だ!」と言い渡されたものです。

いまでも、少なくなったでしょうけれど、続いているのでしょうね。

親子といえども、別の人格ですから、当然、考え方も違います。

ですから、人生の節目では、そのような分かれ道ができるのですね。

この世には「かいじゅう」も「もうじゅう」もあるのですね。

「かいじゅう」とは「懐柔(うまく扱って、自分の思うとおりに従わせること。手なずけること。だきこむこと。【日本国語大辞典精選版】)」です。

そして、「もうじゅう」とは「盲従(是非・善悪の判断もしないで、ただ服従すること。何から何まで言われるままに従うこと。【日本国語大辞典精選版】)」です。

主従の関係で、主側にいると「懐柔」したくなりますし、従側にいるとごたごたするのは嫌だから「盲従」していようという選択が多くのケースであるのではないでしょうか?

人生の中で、主従の関係が逆転したりすると摩擦が生じてしまうのですね。

一時的に、雨をよけるために同じ傘に入ったとしたら、いつかは、別々の傘を用意する日も来るように、様々な選択があり、同じ所にとどまる理由もだんだん希薄になっていくのかも知れません。

血縁とか因縁とかが付きまとうと、人生が翻弄されますから、ジックリと見極めて、最良の選択をしたいところですね。