永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

神は愛である

『 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(Ⅰヨハネ4:16新改訳2017)』

『神は愛です』 教会学校の子どもクラスで、一番短い暗唱聖句です。

とはいっても、信仰者となって長い人でも、神の愛をどれほど知っているのでしょうか?ただし、『神の愛のうちにとどまり』とも記されていますから、その範囲にいることを望めば、神の愛を共有できていることになります。その愛の中にこそ、「神との交わり」があるのですね。

この愛は、命の代償を伴った愛で、ゆるす愛でもあります。そして、重荷を軽くし、背負わなければならないことを共に、主イエス・キリストが分かち合ってくださる愛なのです。

この愛の選択権は、人間の側に委ねられています。

『すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(ヘブル12:11新改訳2017)』

また、この愛は、平安から義へと導く訓練の道という性質もあります。健全な愛の中で訓練をされるのですね。その訓練は『喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われる』とも記されていますね。

つまり、信仰者は信じたら、すぐに天国というモノではなく、「天路歴程(ジョン・バンヤン)」のような訓練の道があると言うことですね。

時には、親獅子が子獅子を谷に突き落とすような事もあるかもしれません。しかし、それは「どんなときも大丈夫」という永遠の腕(申命記33:27)に支えられての愛の中での訓練なのですね。