永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

神の義を求めるとは?

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33新改訳2017)』
『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。(Ⅰヨハネ2:1新共同訳)』

優先順位の一番目に自分を置くとすると、創造主である神の順位はその上というイメージでしょうか?

わかりにくい話ですが、人間は生きていくために必要不可欠な要素の一番目に酸素などの気体や水などもあげられます。

これは、通常はボンベを購入しなくても大気圏に大量供給されている有難い事なのですね。

意識しなくても、永遠から永遠に存在されるのが神さまですから、それを意識化する感覚でしょうか?

「神の義」といえば、人間の場合、アダムとエバ(イブ)の時代から、義に背を向けているので、そのために、第二位格である神が、肉体に宿り、十字架上で、全血を注ぎ、全人類の贖いを成し遂げて下さったのですね。人間は、それを自分のためであったと受け入れる(自分に適応)ことで、神の前に義とされるということですね。

それは、人間の努力や財力など通用せず、修行なども必要なく、ただ、信仰のみで与えられる恵(めぐみ)なのですね。

その信仰のみが、「神の義」へのエントリーであり、「神の国」へのパスポートになるのです。

人間は、肉体にある間は罪を犯す存在なのですが、信仰者には、御子イエス・キリストが弁護者として、「自分がその罪科を支払いました」と示してくださるので、「無罪」としていただけるのです。

裁判では、「有罪」か「無罪」かが、争われます。不思議なコトに「無実」であるか否かではありません。

そして、被告にとって一番、欲しいのは「無罪判決」です。この世的には「無罪」を導き出せる弁護士が有能とされるのですね。高額の報酬と引き替えにですが。