永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

与えられるもの

『ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。(使徒行伝3:1-10新改訳2017)』

「与える」とは?

仏教では、3種類の寛大さとして「物を与える」「恐れからの解放(保護)」「知恵(霊的贈与)」があるそうです。

直接的にインパクトがあるのは、「金品」ですね。

しかし、慰めや励ましをもらっていたり、道徳的な規範であったり、幸福になるための霊的贈与をされたりしているというのですね。

逆に、自分が何気なくしていることが、相手にとってとてもハッピーなことだったり、アンハッピーだったりすることもあるということですね。

聖書的に言えば、究極的には「身体の癒やしよりは、霊魂の癒やし」でしょうか?

癒やすのは、創造主である神なので、信仰者に過ぎない人は、伝えるだけなのですね。

癒やされない、助けられない領域に生きてきたのは人間のご先祖なので、今の時代の人は、レスキューされる立場を受け容れて待つという姿勢が大切なのですね。