永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

本当に見えているならOK

『盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」ヨハネ9:32-41【新改訳2017】)』

最後の赤文字の所です。

「本当に見えていないのに、見えている」という主張は、事実ではありませんから、「罪」であると指摘されているのですね。

視力検査の時、ハッキリ見えていないのに、当てずっぽうで言って、当たることもありますよね。でも、実際の視力は、そこまではないのですね。

気をつけなければならないのは、できるだけ正直であることのようですね。

「知らないコト」を正直に「知らない」と言えるとウソをつかなくても済みますから気持ちもラクでいられますよね。

おまけに、知っている人に本当のことを教えてもらえるかも知れません。

見栄や肩肘を張って生きていると、それだけでかなり疲弊してしまうますからね。

必要以上のストレスを抱え込まないためにも正直に生きたいです。