永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

確信に基づく関係性>DNA

「誰が何を言おうと、おまえはおれの子だ。そして、おまえの父親はおれだ。」

なんてセリフありますよね。

血のつながりはないけど、親子になった間柄のケースなどですね。

 

継母とか、継父とかは、成長過程からの変化なので、赤ちゃんの時から慣れる(当たり前)感覚が持てず、特に子の中の気持ちの折り合いが難しいのですね。だからこそ「子を思う親の気持ち」「親を思う子の気持ち」が通い合えば、本当の何物にも替え難い幸せではないでしょうか。

 

人の生きづらさは、関係性に確信を得られない事にもあるかも知れません。

 

「子なのだから、親の言う事を聞くのが当然」とか「親なのに子の気持ちをわかってくれない」なんてことから、収拾がつかずに溝が深まっていくのですが、成長による距離感の修正は必要でも、その方向性は修正できるかもしれません。

 

もう一つは、親の立場の難しさです。

「子の存在を最大限認めながら、行為(doing)は必要な修正を時には叱り、しつけをする必要があるからです。」

世の中の色々な物差しがあるコトを伝えていく立場なのですね。

万引きなどの犯罪は、エスカレートしていくので、愛情で埋め合わせていくしかないのですが、「だれもダメだと教えてくれなかった」という刑務所暮らしの人もいます。人生のどこかで、快不快や善悪や損得を知っていく事は大切だということですよね。

 

究極的なケースは、親と呼べる人が他界している場合です。それでも、創造主が、あなたの「親」であると確信が得られれば、天涯孤独だという絶望感や、疎外感からは解放されることでしょうね。

同時に、親も人間なので、あなたが向き直ろうとしても、向き直ってくれない時があります。その時には、「親替え」をお勧めします。

 

「婦(おんな)その乳児をわすれて己がはらの子をあわれまざることあらんや。たといかれら忘るることありとも我はなんじを忘るることなし。われ掌(たなごころ)になんじを彫刻(えりきざ)めり。(イザヤ49:15,16)」