永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

きみはごちゃ混ぜにしてる… サン・テグジュペリ

『きみはごちゃ混ぜにしてる…大事なこともそうでないことも、いっしょくたにしてる! サン・テグジュペリ

自由な雰囲気を感じるサン・テグジュペリのフレーズですね。

視点を変える為に、色々なフレーズに接することも有益だと感じています。

自分が身を置く状況の中で、冷静に優先順位をつけることはハードルが高いコトではありますが、大事なことに焦点を合わせる大切さを示しているように感じます。

もちろん、自分にとって何が大事であるか?というコトになりますね。

物事を観察するときに、いくつもの人格の視点に立って(立場を変えて)視ることも大切ですね。しかし、一番大切なのは、自分本位の視点で、それを理解した上で、どのような判断を下すかの意志決定をすれば良いのですね。

「いっしょくたにに」見えるかたまりから、見分ける視力が必要なのですね。

人生の棚卸しはいつ?

採算は合っているのか?という視点で、お店を観察したりします。みる時間帯によっては、お客さんがほとんどいないので、大丈夫だろうかと心配になったりすることもありますね。

企業は多くの借入金があっても回転資金がショートしなければ存続できるそうですね。

決算書は、締め切りの時点でも状態を表しているので、利益が計上されていても、実際は回転資金でキュウキュウとしているケースもあるようですね。

人生の採算という視点はどうなのかと考えています。

いのちがあるだけで大成功という評価はできても、できたことやできなかったことがあるでしょうね。

やってみたいことがあったけれど未体験だった何てこともあるでしょう。

できるとは思ってみなかったことが、できてしまったなんてこともあるかも知れません。

「幸」と「不幸」のバランスはどうだったのか?なんてものさしもありますね。

周囲が「辛い」と感じるほどの人生を送った当事者の方が、「幸」に対する感度が高く、「自分は幸せな人生だった」と表現するコトもあります。

人生の何を一番の印象に置くかで「幸せの実感(密度)」にも大きな差がでるようですね。

怒りから距離を置くために 詩篇37:7-10 ヤコブ1:20 箴言16:32

『沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。(詩篇37:7-10新共同訳)』
『人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブ1:20新共同訳)』

怒りは突然膨らみ爆発するコトがあります。人なら誰にもその可能性があります。

しかし、感情を解放する以外は、リスクの方が大きいにも現実です。

怒りが連鎖して、大事になってしまったなんてこともあります。

怒らせて冷静さを失わせるという巧みなマインドコントロールの手法もあります。

つまり「怒り」には、ワナの要素も含まれているのですね。

「怒りを解き、憤りを捨てよ。」とあるのは、仕掛けられているワナに囚われないように放棄するススメをされているのですね。

どうしても、自分が劣勢に立たされていると感じれば、あらゆる禁じ手までも使って挽回したいと考えてしまいます。しかし、「悪事を謀るものは断たれる」とも書かれてあり、盛者必衰の流れで淘汰されるという流れがあるので、我力で動く時ではないということなのですね。

まずは6秒間グッとこらえて、怒りが収まるのを待ちましょうか。そして、怒るところからできるだけ距離を置くようにしたいモノです。

動画 いやー これは寒すぎるカモ


Adorable Ducks Change Their Mind || ViralHog

カモは集団(家族?)で行動するようですね。

飼育されているカモたちを屋外に出そうとした管理人が扉を開け、カモたちが外に出てくるのです。

しかし、そこは雪の世界、動画を見ている私が寒く感じます。

勢いよく飛び出してきたカモたちは、一瞬とまると、それ以上行動範囲を広げませんでした。後についてきたカモが引き返し出すと、勢いを増して、小屋の中に帰って行きました。

水辺で生活するカモにとって、濡れるコトぐらいは平気だと思いますが、雪と寒さには参ったようですね。

寒い日には、布団から出たくないとか、こたつから出たくないとか、生き物同士ですから同じような気持ちが分かりますね。

親はもとより大切である。しかし… 島﨑藤村

『親はもとより大切である。しかし自分の道を見出すということは猶(なお)大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。 島﨑藤村』

子のことを思いやれる親や、親のことを自分のコトよりも思いやれる人はスゴいなあと感じます。

でも、このフレーズは、人生における優先順位の確認を促しているように感じます。

私には『自分を愛するように隣人を愛する』という聖書の法則を重ねて見えてきます。

「自分の道」というのは、自分が何を選び、どのように進めば良いのかということですね。

聖書の中でも、『父母を敬え』と『子を怒らすな』とがぶつかり合うような要素がありますから、どのようなマインドで相手を許容するかも課題なのでしょうね。

何よりも自分のコトをというと、何て自分勝手なのだろうと批判の対象にされそうですが、ここが一番基本で大切な要素なのですね。

やがて、何よりも大切な助けが必要な時期が来る前に、親も子も自立しているうちに、それぞれの道を確立できると良いですね。いつでも、軌道修正はアリですからね。

運がある人ない人

あの人は運があると見える人がいます。実際の所は、分かりませんね。

運だけある人であれば、例え宝くじに当選したとしても、身を持ち崩して破綻してしまうかも知れませんね。

一方、運と実力を兼ね備えた人だなあと感じる人もいますね。手掛けた事業もうまくいって、家族も増えて順風満帆のように映ることもあります。

ビンゴゲームをしても、早い目にビンゴが出る人と、いつまでも出ない人といるようにも感じます。

どうすれば運気が上がるのかが分からないので、スゴく不思議に感じる部分ですね。

一攫千金の運に巡り会いたいという欲望はありますが、人生を通じた理想型は、人生の節々で、程よい「運」に巡り会えるというコトなのかも知れません。

天は、どういう基準で「運」を降らせるのか?

本当に不思議だなあと感じています。

罪に定められない人 ロマ8:1

『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ロマ8:1-2新共同訳)』

罪に定められないことは自由と言うことですね。

「命をもたらす霊の法則」と「罪と死との法則」との対比がなされています。

つまり「罪と死との法則」が人間を縛り、罪に定めていたのですね。

「命をもたらす霊の法則」に移行する為の条件は「キリスト・イエスに結ばれている者」という条件ですから、これをクリアすれば罪に定められなくなり、解放されるのですね。

「結ばれる」という表現は、契約社会をイメージします。

福音の三要素によりイエス・キリストと結ばれるということにより、聖霊による「罪科支払い済み(PAID)」という印を押されるのですね。

でも、肉体とセットになっている罪の性質を無効化することはできませんから、肉体に生かされている間は、罪の影響を受けるコトになりますね。

「罪を犯すこと」と、「罪を常習的に犯し続けること」には大きな違いがあります。「罪を犯すこと」は、過ちをしても引き返すことができます。しかし、「罪を常習的に犯し続けること」は、罪の中にドップリ浸かってしまうことを意味していますから深刻な状態ですね。

生地についた一点のシミは目立ちますが、全体がその色に染まってしまえば判別不能になるからです。ただ、染まったような状態からでも、専用のガウンが一人一人に用意されていますから、それを纏えばシミも覆われるのですね。これが、「命をもたらす霊の法則」に移行する決断をするコトなのですね。