永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

加点法を採用します。 今ココからの再スタートのために

人間は、ある程度、成長すると、減点法で評価され、それが、習い性になっていませんか。

常に、足りないところばかりに注目されるのでは、精神的に参ってしまいますよね。

ところが、習慣化された振る舞いは、抜け出すのは非常に困難なこともよくご存じのコトだと思います。

テストなどでは、満点が決まっていますから、それに比較すると正当数が何点かということですね。逆に言うと、何点分、間違っていたかということです。

しかし、人間のやることなすことには、絶対的な正解がありませんから、それぞれの物差しでの評価になってしまうのですね。

それならば、改善工夫は可能性の余地として、今まで積み上げてきたことを、認めてみるという考え方を採用してみませんか。

その考え方が、「加点法」というベースになると考えます。

例えば、インスタントの焼きそばを調理して食べたとします。お店やお母さんの焼きそばとはかなり違うと思いますが、「焼きそばをつくり食べた」のです。「できた!」ということですね。今度つくる時には、野菜を加えるとか、肉を入れてみるとか、アレンジの余地が膨らむのですね。

とにかく「できた」と認めることが、今ココの土台になり、それにまた積み重ねていけるという考え方ですね。

「自分なんて…」という自己批判や他者からの批判ストレスにさらされることなく、「今度はこのように工夫してみよう」と考えるゆとりが生まれる可能性がありますね。

よりよい加点法を実践していきたいですね。

神の義を求めるとは?

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33新改訳2017)』
『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。(Ⅰヨハネ2:1新共同訳)』

優先順位の一番目に自分を置くとすると、創造主である神の順位はその上というイメージでしょうか?

わかりにくい話ですが、人間は生きていくために必要不可欠な要素の一番目に酸素などの気体や水などもあげられます。

これは、通常はボンベを購入しなくても大気圏に大量供給されている有難い事なのですね。

意識しなくても、永遠から永遠に存在されるのが神さまですから、それを意識化する感覚でしょうか?

「神の義」といえば、人間の場合、アダムとエバ(イブ)の時代から、義に背を向けているので、そのために、第二位格である神が、肉体に宿り、十字架上で、全血を注ぎ、全人類の贖いを成し遂げて下さったのですね。人間は、それを自分のためであったと受け入れる(自分に適応)ことで、神の前に義とされるということですね。

それは、人間の努力や財力など通用せず、修行なども必要なく、ただ、信仰のみで与えられる恵(めぐみ)なのですね。

その信仰のみが、「神の義」へのエントリーであり、「神の国」へのパスポートになるのです。

人間は、肉体にある間は罪を犯す存在なのですが、信仰者には、御子イエス・キリストが弁護者として、「自分がその罪科を支払いました」と示してくださるので、「無罪」としていただけるのです。

裁判では、「有罪」か「無罪」かが、争われます。不思議なコトに「無実」であるか否かではありません。

そして、被告にとって一番、欲しいのは「無罪判決」です。この世的には「無罪」を導き出せる弁護士が有能とされるのですね。高額の報酬と引き替えにですが。

交通違反で終身刑? マサカの展開

youtu.be

あるカップルがドライブ中に、パトカーに停止を命じられて、停車し、車から降ろされます。

なにか、ヤバい雰囲気です。

次に、助手席にいた女性も降ろされ、心配そうに運転手の男性を見やります。

交通違反には、終身刑などないのですが、何か怪しい気配です。

警察官は、女性に運転手の男性の前に立つように言って、しばらく離れます。

そうすると、運転手の男性が、女性にプロポーズしたのです。

警察官もグルのサプライズだったのですね。

この運転手の男性は、交通違反の罰則を受けることはありませんでしたが、結婚生活という「人生の終身刑」を自らに科したのですね。

そこまでしたのですから、この二人には幸せを味わって欲しいですね。

冷めた人と言われても、大切な要素

「冷め切らない冷静さ」という表現が適切かどうかはわかりません。

しかし、私は、大切な要素だと考えています。

モノの見方には、主観と客観、そして、俯瞰とあります。

登場人物でいうならば、当事者、取り巻きの人、傍観者など、関係性で視点も異なります。

物事から距離をとると、客観性が増す傾向は高くなると思います。

天からの視点で見ようとすると俯瞰ができます。

大切なのは、物事に一番近い当事者が、近視眼的ではない、主観はもちろん、客観や俯瞰を手に入れられないモノかというテーマです。

「冷め切らない冷静さ」というのは、当事者が、傍観者になってしまわないための微妙な距離感だと考えるポイントだと考えています。

一次感情を表現できるとスッキリする

怒ると瞬間的にキレてしまうと言う人が、増殖している世の中のようです。

また、自分がいつ怒りを爆発させてしまうかも、可能性を否定することは難しいですね。

そもそも、怒りは二次感情といわれ、その根元に横たわる一次感情というものから出てきます。

その一次感情には、落胆、不安(心配)、悲しみ、寂しさ、傷つきなどがあります。

それを感じるのは、無意識レベルの場合が多く、導火線に火がついて、怒りを爆発させてから、はじめて気づくものかも知れませんね。

ですから、大切なのは、一次感情の意識化(メタ認知)ですね。

「今、私は悲しい」とか「今、私は寂しさを感じた」とか、そこにある気持ちを口から声に出して表現することができると、気持ちが落ち着くのですね。

もちろん、怒る時は怒っていいと思います。ただし、感情的に不快感をぶちまけるのではなく、どういう理由で怒っていると表現できると伝わりやすいでしょうね。

深呼吸をしたり、気分転換を工夫したり、できるだけ怒りから距離を置いたほうが、穏やかな人生がおくれるように考えてますよ。

面倒くさいの次は?  その前は「どうしたらいいのかわからない?」

片付けなければいけないと分かっています。

でも、何をどのように判断したら良いのか検討もつきません。

堂々巡りがはじまり、自分の容量を超えてしまうのですね。

やがて、面倒くさくなります。

疲れて、あきらめるしか思考に浮かばなくなります。

そして、絶望して、ありとあらゆるモノが堆積し出すのです。

いつの間にか、ゴミ屋敷化してしまうのですね。

この流れは、多くの人に共通するようです。

途中で横やりが入ったり、行き詰まる理由は様々のようですが、まるで、そのような裏道が備えられているかのようです。

考えるのを止めてしまえば、少しは楽になれるのかも知れませんが、問題は深刻化するばかりですね。

そのような場合は、誰かの助けが必要な時期なのかも知れませんね

途方に暮れていた自分でも、ある瞬間から、ふと冷静になり、また、エネルギーが湧いてきて、ある程度クリアーできたことも体験上はあります。

一気に全部というよりも、少しずつ、取り組めるところから手をつけるのが得策でしょうか?

「人が癒やされる愛」について

レンブラント「放蕩息子の帰還」

www.musey.net

父の所に帰ってきた弟息子がひざまずき、父が両手を肩に置くという描写です。

この父の両手の描き方が、左右で違うのです。

これを父性と母性が描かれているのではないかと考える人もいるようです。ぱっと見ても分かるくらいの差がありますから、レンブラントは何らかの意識をして描いたと想像できます。それをどう受け取るかは、受取手の特権ですね。

ここから、人が癒やされる愛について考えてみたいと思います。

人間は、父と母の間に生まれて育つのですが、どうにも愛情のバランスをとるのが難しいケースが多々ありますね。

両親も人間ですから、当然、不完全で、健全な愛を注げる部分と、健全ではない部分がでてきます。

人生の中での大きな宿題というのは、健全な愛を探し出して、心のポッカリと空いた穴を埋められるかどうかにかかっているように感じます。

この健全な父性と母性は、人生の中で触れ合う誰かから、感じ取るか、もらうのだろうと私は考えています。私自身の体験から、実親以外から、かなり補完してもらっていると感じています。

必ずしも、母性は女性からもらえるモノではないし、父性も、男性からもらえるものではないでしょうね。

母性のぬくもり、あるいは、父性のぬくもりと書いたほうが、受け取りやすいのかも知れませんね。

それと合わせて、信仰者には、創造主である神の御手が置かれていると考えると、暖かいモノに包まれている感覚になりますね。

参考文献:「暴力と人間(工藤信夫 著)p82」