永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

やがて権力は権威に屈服する

『キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、エスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:6-11【新改訳2017】)』

二一世紀の今は、権力の全盛期かもしれません。

経済や地位を得たものが、独裁に近い振る舞いができてしまう現実があります。

しかし、やがて、そんな時代も終焉を迎えることになるでしょう。

西暦の基準である「イエス・キリスト」の御名によって。

「すべての舌が」とあるのが、権威を認めざるを得ない状況になると言うことです。

その時に、降伏した側にいるのか、待ち望んだイエス・キリストの権威が権力を包み込むのを感慨深く喜ぶ側にいるのかによって、大きな差があります。

少々のワイロを海外口座に入金してもらっても、引き出せる日が来る保証もありません。

袖の下を広げて、ワイロをかき集めたとしても、使い切れないかも知れませんね。

今からでも、「イエス・キリストは主です」と告白して、イエス・キリストの権威を認める生活をすることができます。

信仰者として、心の権威にイエス・キリストを据えることで、そこから、平安な御国がスタートできるのです。

ハレルヤ!

キリの無い異端論争

雨後のタケノコのように、次から次へと、衣を替えて新装開店する「異端」があります。

異端論争からすれば、カトリック教会に対して、疑問を抱き、抗議(プロテスト)したルターもその当時のスタンダードからは、異端視されたことでしょうね。

そこから、現在のプロテスタントという教派が形成された歴史もあります。

「聖書的ユダヤ教」という考え方を基準に考えると、「福音の三要素…イエスキリストは十字架に架かり死なれたこと、葬られたこと、三日目に復活されたこと」をリトマス試験紙に適用することができます。

まず、聖書的ユダヤ教についてですが、ユダヤ教は旧契約に関する部分に対する信仰であると言うこと、それに、約束されたメシア預言の新契約を重ねる事によって完成する聖書を紅の糸で貫くように完成された姿を見ることができます。

また、今日の異端とされるグループは、イエス・キリストの神性を否定する傾向があります。

ここが重要なところですね。

イエス・キリストは、100%神であり、100%人であると言うところにこそ、天と地上の階段を行き来する役割の証明になるのです。

創造主である神は、三位一体、三位格あり、第一位格は御父(親)なる神、第二位格は御子(イエス・キリスト)なる神、第三位格は聖霊(助け主)なる神、三つの位格が一体としての存在なのですね。

これが、信仰者にとっての重要な核心なのですね。

信仰者の身の置き方

『十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。(ルカ23:39-48【新改訳2017】)』

この日の十字架は三つで、その真ん中に、イエス・キリストが架けられた。

その両側には、「悪人」「犯罪人」「強盗」など翻訳によって様々に表現されている。

一説によれば、政治犯ではなかったかと言われている。

イエス・キリストとの違いは、法を犯したかどうかの違いだった。

犯罪人とされる彼らには、十字架刑が自分のしたことの報いだと自覚していた。

一人は、「イエス・キリストに神なら、自分も私も助けろ」と迫り、もう一人は、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言った。

これに対して、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と応えられた。

信仰者の多くは、「パラダイスにいる」と言われた後者に自分を重ねる傾向が高いようだ。

しかし、信仰者もキリストを着た「罪人」に過ぎない存在なので「自分の私も助けろ」といった側ではないだろうかと謙遜に構える人もいる。

肉体に宿る自分はまさに前者であるのだが、「神殿の幕が真ん中から避裂かれた」この出来事によって、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」という立場に変えられていることを感謝する他ないですね。

猫の手も借りたい状況

 

とても忙しい時に「猫の手も借りたい」などと言いますが、この動画を見ると困ったときにも猫の手で助かったようですね。

飼い主が、洗面台の排水パイプに、指輪を落としてしまったそうなのですが、ネコちゃんがモゾモゾして、ゲットしてくれました。

こういうグッズは、パイプに入るととるのが厄介ですね。

「猫じゃらし」などの興味が引かれるモノに夢中になるネコちゃんならではのお手柄なのかも知れませんね。

このご褒美ナャニをもらったのかな?

炎上させてでも注目を浴びたい気持ち

炎上マーケティング
読み方:えんじょうマーケティング
別表記:炎上商法、炎マ
企業が多くの非難を浴びるであろうと予測できる行動をとり、商品の知名度や売り上げを高めるという販売戦略のこと。好評価に比べて低評価の噂は広がりやすいとされることなども手伝って、今までは全く商品について知らなかった層に広告費をかけず名前を売ることができる。しかし、商品に対してのボイコットなども当然起こりうるため、結果的に戦略としてプラスに働くか否かは明らかでない。

炎上商法(えんじょうマーケティング)とは何? Weblio辞書

 

炎上商法というのは、今に始まったことではないようですね。

最近は、SNSなどで、批判されることを前提で発信し、拡散を狙う方法を使うところもあるのですね。

または、そのつもりがなくても、不用意な発言から、「炎上」してしまうケースもあります。

アクセスが少ないと、たとえ「炎上」させてでも、来場者を増やしたいという気持ちは理解できます。

しかし、一時、火事場見学に来た人達が、どのような行動を起こすかなど予測は難しいですよね。

外食チェーンなどのアルバイトが、お店の中で不適切な行為を動画で撮影して拡散するなどの行為は、それをすることによって、その後どのような影響が出るのか、想像力が欠如しているのではないかと指摘されます。

思春期に訪れる注目を浴びたい症状が爆発した感じなのかも知れません。

スマホ全盛期の影を見る要素でもあります。

こういうことがあると、ツールやテクノロジーが批判されますが、あくまでも使う側の使い方の課題であるという認識を共有しておきたいです。

予定変更に対応できる性

十月十日子を宿し育むことは、女性にしかできないコトです。

ですから、男性は女性に頭が上げられないのですね。

女性は、人生の中で、絶えず予定変更を迫られると耳にします。

臨月になっても、「もうすぐ」「もうすぐ」と言われながら、何日も痛みに耐えて待つというのもその一つですね。

子どもが生まれたなら、子どものペースで、ミルクやりやおむつの交換など、挙げたらきりがないくらいです。

たとえ寝不足でも、赤ちゃんに愛情を注げるのは、母性ですね。

そうして、苦労して育て上げて「くそばばあ」呼ばわりされれば、7合目だそうです。

でも、その時期になると、親の介護とか出てくるという年代に差し掛かりますね。

今度は、身動きに制限がある人のペースに会わせる生活がスタートするのですね。

子育てやご家族のケアをしてきた経験から、女性にアドバンテージがある分野です。

しかし、世の中の現実は、独身男性でも、一人で介護をしなければならないという状況が増えてきているみたいです。

相手に合わせて臨機応変に対応できる心のゆとりをどのように確保していくかが、これからの課題になりそうですね。

自分を大切にしながら、相手を尊重するというバランスの取り方がテーマですね。

偶然は備えあるところに

『偶然は備えあるところに訪れる(ルイ・パスツール世界の名言名句1001p747より)』

ルイ・パスツールは、食品保存の科学(パスチャライゼーション…低温殺菌)やワクチン接種といった医療処置へ貢献した。

彼は、「備えある心で偶然を掴み取るのが観察という分野」だと指摘した。

また、自身の研究から物質的な利益を求めず、教授としての給料で満足していた。

今日の権利ビジネスと出資と配当という仕組みは、パスツールからすれば縁のない世界だったのでしょうね。

彼は、教授として後進の指導に当たり、観察することの心構えを説いていたのですね。

日常の中にある、天から降ってきたと思えるような偶然に見える出来事でも、誰かによって備えられている必然なのかも知れませんね。

偶然が、目の前に現れるその時に、しっかりと感謝してゲットできるように心構えを持ちたいですね

不思議なコトだらけの日常に感謝して過ごしたいですね。