永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

違和感が良い?

『あなたは、ちがう。だから、いいんだ。岩城けい(昨日と同じ小説『さようなら、オレンジ』より)』

アフリカからオーストラリアに逃れてきた難民女性に、その姿を見た上司は、「あなたは、ちがう。だから、いいんだ。」と言ったそうです。

動物は、違和感を覚えると、防衛本能がはたらき、警戒信号を発します。

それが、人間になると、違うことを排除しようとしたり、自分にとって都合が悪いと感じると抹殺しようとしたり企てたりする恐ろしい面も持ち合わせています。

人間は、良心が優位の時には、理性でセーブしていますが、その境界線を越えてしまうと、鬼になってしまうこともあります。

人類は、もともと、アダムとエバから繋がっていると考えると、肌の色や言語の違いは、乗りこえられるのかも知れません。

血が繋がっているというだけでは、相手を理解できないことに対する警戒心を解くことは難しいのでしょうね。

相手を理解することからはじめて、相互理解に努めるように励みたいですね。

そして、互いに持ち合わせていない補完関係ができれば、鬼に金棒になりますね。

聖書は冒険へのチャレンジで満ちている

イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。…ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。
ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」
ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった【主】は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】がおまえとともにいてくださるように。」サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。ペリシテ人ダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。ペリシテ人ダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
ダビデペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」そのとき、そのペリシテ人ダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。
ダビデは、あのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰った。しかし、武具は自分の天幕に置いた。
ダビデペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて来た。ダビデペリシテ人の首を手にしていた。サウルは彼に言った。「若者よ、おまえはだれの息子か。」ダビデは言った。「あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの息子です。」(サムエルⅠ17:21-58抜粋 新改訳2017)』

まだ、羊飼いだった少年ダビデが、ペリシテの代表戦士であるゴリヤテに挑むシーンです。

年齢も体格も少年ダビデよりは、闘いに適した兵士が大勢動員されていたのですが、誰も私がゴリヤテと闘うとは言い出さなかったのです。

羊飼いとして、羊を守るために、熊と闘ったこともある少年ダビデが勇敢に名乗り出て、サウル王の鎧や剣ではなしに、日頃使っている石投げで対峙し、勝利を得たのでした。

少年ダビデは「主の御名による主の戦い」という、信仰によって勝利を得ました。

万策尽きたと思えるような状況に置かれた時に、天を見上げて天の窓から力を頂いたのですね。

聖書の中には、このような、人間的に考えると冒険を超えたストーリーが収録されています。

火に油を注ぐのも、水を注ぐのも危険

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火が入ってしまったフライパンは消火をする必要がありますが、水を注ぐとエラいことになります。

高温の所に水を投入すると、気化して、水素と酸素に分解され、残りの油が燃えやすくなってしまうようです。

ですから、無難な方法は、そーーーっとフタをするのが良いそうです。

ただし、防火服など、やけどや衣服などに燃え移らないように配慮することも大切なようですね。

「火に油を注ぐ」という、さらに状態を悪くする例えがありますが、「火に水を注ぐ」のも良くないケーズがあるのですね。

何かを失い始めると…

『何かを失い始めると、急スピードですべてを失ってゆくのね。ジェーン・バーキン』【ジェーン・バーキンの言葉(山口路子著)】より

「あたりまえ」と思っていたことも、ちょっとした油断であっけなく崩れることがありますね。

日常で無意識で起きていることは、「あって当然」と思って、感謝などしないこともあります。

しかし、「幸福は日々の繕いがあってかろうじてもつ」のだそうです。

案外「ある」ものに目をとめる習慣が身についてくると、見過ごすことが減るのかも知れないですね。

人目につかない手助けなども、数多くあるのですからね。

「ある」ものに感謝していきたいですね。

大杉漣の遺作 最後の主演映画 「教誨師」

教誨師とは、

監獄内における受刑者の徳性涵養 (かんよう) のため講説する者をいう。教誨活動には,宗教を中心とする宗教教誨と宗教によらない一般教誨との2種類がある。教誨師は,休業日および日曜その他刑務所長が必要と認めた日に受刑者に対する教化改善のための指導を行う。わが国ではおもに諸宗教の聖職者がボランティアでその任に当っている。
https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E8%AA%A8%E5%B8%AB-52465

大杉漣さんは、プロデューサー兼主演で、この教誨師の役回りで、6人の死刑囚と向き合う状況を映画化したのですね。

劇中で「AmazingGrace」が流れていたり、「ここに誠の愛あり…」という賛美歌がでてきたりするのです。

日本では、約2000人の教誨師がいて、その中で約14%がキリスト教の牧師だそうです。

ですので、牧師としては、何とか福音は伝えたいのですが、相手は一日でも長く延命したいという構図は、迫力がありますね。

まさに、「福音を伝えるのためvs延命をはかるため」のせめぎ合いという感じでしょうか。

様々な人の葛藤に向き合うイメージが膨らむと思います。

まだ、ロードショーをしている所もあるようですので、ご興味がある方は、身近な所を捜してみて下さい。
http://kyoukaishi-movie.com/theater.html

kyoukaishi-movie.com

知っていると分かっているの差

もの知りの知識が豊富な人は、博識などと評されます。

宇宙規模で考えれば、知っている事よりも、知らないコトの方が圧倒的に多いのでしょうね。

物事でも、ものの形を知っているとか、名前を知っているとか、成り立ちを知っているとか、それぞれに、奥深さがあるのですね。

例えば、、ラムネのビンに、ビー玉が入っています。

「夏の風物詩」みたいなイメージが浮かんでくる人もいるでしょう。

冷えたラムネのビンを「プシュー」とあけて、噴き出す泡を漏らさないように、口に含めると、爽快感がのどから身体に満たされます。

ラムネ自体を知らないと言う人もいますね。

ラムネのビンを知っているといっても、ビー玉なんて入っていたっけ?という人もあるでしょう。

ビー玉が邪魔して、ナカナカ最後まで飲むのが大変だったんだと言う人もあるでしょう。

さらに、ディープなのは、ラムネのビンの作り方を知っているとか、作っていたとか。

などと、知識の分野だとか深さには、様々な広がりがあるモノですね。

自分が、何の何を知っているのかをハッキリしておくと、その先を知る楽しみが広がりそうですね。

死への現実感が生への現実感を高める

ホスピスは、座して死を待つ所というイメージもありますが、実際の現場は、いのち溢れる所なのだそうです。

生きるエネルギーに満ちあふれているのだと、医師は言っていました。

ホスピスでの主な治療は、緩和ケアですから、痛み止めを処方するのだそうですが、医師の仕事は、自分専用の椅子を持ち歩いて、回診をするのだそうです。

ベッドサイドで、ジックリ話を聴くのだそうです。

巷の5分診療とは次元が違いますね。

人間は、致死率100%ですから、いつかは、肉体的死を迎えるのです。

それは、分かっているのですが、自分にいつ訪れるか分からないので、おぼろげにしかイメージができていないのですね。

ホスピスに入れるのは、末期がんか免疫不全など治療の方法が見つからずに、余命が限られた人なのです。

この方々は、別な表現をすれば、死の現実感を受け容れているのですね。

それが、イメージされると、限られた生への現実感も高まり、生きるエネルギーが充ち満ちてくるようですね。

本当は、「生かされている」のですが、「生きる」って、不思議ですね。