永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

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ワイルドですね。

道なき道をクルマで走るなんて、ほとんど舗装されている道路だけを走っている筆者にとっては、「アメージング」でした。

人がするフリークライミングは、「ボルダリング」という名前を耳にするようになり、街中のスポーツショップにトレーニング場があったりして、一般的になってきました。

しかし、クルマを使って、岩山を制覇するというのは、なじみが薄く、観ているだけでも鳥肌ものですね。

でも、「テクノロジー」と「人間のやる気」が結びつくと、不可能に思っていることでも、可能になるコトもあるのですね。

尊敬の意味を込めて「クレージー」ですね。

相貌失認(失顏症)

失顔症とは相手の顔を見ても誰だかわからず、その表情の識別もうまくできない病気です。正式名称は相貌失認(そうぼうしつにん)といい、先天性相貌失認は人口の約2%いるそうです。
失顔症(相貌失認)セルフチェック|簡単診断テスト

お年頃の大人になってくると口グセのように、「名前が出てこない」とか「顔と名前が一致しない」とか言いますよね。

約2%の人は「相貌失認(失顔症)」という症状があるそうです。

それ以外の人は、物忘れの領域なのでしょうね。

筆者は、名前と顔が一致しにくい部分が自覚としてあります。

覚える必要がある対象者が、どのような特徴があるかのインパクトをいっしょに取り込もうと考えています。

一発芸などは、覚えやすいので助かります。

まあ、苦手なコトは誰にでもありますから、自分を責めすぎないことも大切と考えるようにはしています。

名前が特徴的か、風貌が特徴的か、などは、コンプレックスを感じている要素であっても、実際には、「プラス要素」に働くことも、結構あるのですね。

○○だからできない 言い訳の達人

「今日は暑いからできない」とか、「今日は気が進まないからできない」など、次から次へといい訳が出来る達人が結構いますね。

地域的な要因、年代、経済状態など、さまざまな理由をイメージして、可能性を感じられなくて、行動に結びつかないのですね。

もちろん、何でもかんでも、行動だけしていれば良い訳ではありません。

大切なのは、「マイナス要素」だけを過大評価していないかということです。

「プラス要素」も「マイナス要素」もバランス良く考える必要があるのですね。

それぞれ、取り組める範囲があるので、「トライアンドエラー」を繰り返して、求める成果が見込まないと判断すれば、一度撤退するということも必要なケースもありますよね。

リセットやリスタートを柔軟にできる要素も人生には必要ですからね。

そのために、自分自身を追い込む方向を考えておくことも大切かも知れませんね。

もう一つ気をつけたいコトがあります。

「○○でなければ」で、雁字搦め(がんじがらめ)に、ならないようにも気をつけたいですね。

半径50cmから

『「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
エスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:36-40【新改訳2017】)』

パリサイ人は律法が613あると教えていた。ここで、イエスを試すために、このような挑み方をしたのです。

それに対して、第一は「神への愛」、第二は「隣人への愛」と明快に律法のポイントを示された。それを実践することによって、戒めがすべて守られたことになると言うのですね。

当時のパリサイ人にとって、613ある律法を破ることは、重大だったのですね。

そもそも、私たちの先祖アダムが、罪を犯したのは、「神への愛がなかったから」なのでしょうね。そして、私たちが他人を傷つけてしまうのは、隣人への愛が足りないからでしょうね。

この箇所は、十字架になぞらえて「神とのタテの関係」と「隣人とのヨコの関係」に例えられるコトもあります。

愛を発揮できる基本は、神との愛が確立されていること。

そして、自分自身を健全に愛していること

この2つがベースになって、成立することなのですね。

タイトルの「半径50cmから」というのは、自分自身を健全に愛して、手の届く範囲から整えていくステップが重要だと感じていると言うことです。

一番身近なのに、手が伸びないとか、手がつけられないとか、ありますから、見直して対応を考えたいですよね。

続けることの大切さと難しさを痛感…2年間の連続投稿

730日の連続投稿にチャレンジしてきました。

様々なネタに助けられた時期もありました。

時間的制約を感じて、プレッシャーを感じたこともありました。

筆者自身のネタ帳として、気づきや考察を文字に起こすという習慣づけには役に立ったように感じます。

内容については、検討が必要だと感じています。

環境も含めて、次へのチャレンジを考えております。

そのようなチャレンジの中で、世界情勢は大きく変わりました。

青天の霹靂というのは、このようなことを言うのかと感じるほどの、大国の体制の変化、そして、外交方針の大転換などが表面化してきました。

本当の平和の到来までのカウントダウンが始まったのか?と感じるほどです。

それまでの間には、水面下の大きな戦いや、平和に見える時代であったり、局部的な紛争などがあるでしょうが、やがてその時は来るのですね。

ただし、次の約束を胸に、「平和のススメ」を続けることにします。

毎日、ここに来ていただいている方々に深くお礼申し上げます。

『…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」【マタイ28:20新改訳2017】』

永遠の生命保険に加入し、いつも共にいてくださる創造主である神と、永遠の幸福マインドで「今ココ」を平和で生きることができるのは、感謝ですね。

「実に彼は神の子である。」ローマの百人隊長の告白

『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」その中にはマグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。【マタイ27:50-58新改訳2017】』

メシアであるイエス・キリストの十字架刑を一部始終見ていた一人が、ローマの百人隊長でした。

その後の諸現象も目撃して、恐れや畏敬の念を感じたのでしょうね。

他の十字架刑も監視したことがあるのかも知れません。

または、メシアであるイエス・キリストの両側の二人との差を色濃く感じたのかも知れませんね。

でも、この「この方は本当に神の子であった。」という証言は、彼の信仰告白ですね。

ローマの百人隊長は、異邦人ですから、クレネ人のシモン、十字架刑になった強盗の一人に続く、異邦人の信仰者となったのですね。

信じる者になりなさい。

『十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。…それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」エスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」【ヨハネ20:24-29新改訳2017】』

十二弟子の一人だったトマスは、良く言えば慎重派でした。

エスが復活したのを目撃した他の人の証言を信じられなかったのです。

その次の機会に、イエスがトマスの前に現れて、手と脇腹を見せながら、「触ってみなさい。」と勧めたのです。

慎重派のトマスでも、見ただけで十分だったようです。

すぐに「私の主、私の神よ。」と応答しました。

自分がトマスの立場だったら、証言を聞いた段階で信じられたでしょうか?

それは、わかりませんが、今の時代の人たちには、「見ないで信じる人たちは幸いです。」と記されているのです。

見ないで信じると言っても、今の時代の人たちには、伝承や聖書というものがありますね。

それらの情報を一人一人が丁寧に精査して、自由意志でより良い選択をすることが勧められているのですね。