永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

世の中、からくりだらけ

youtu.be

ピタゴラスイッチ的な装置です。

ハンドスピナーを多用した先進的な装置に仕上がっています。

タイムラグや揺り戻しなど豊富なパターンで、見ていても飽きない動画です。

こういう装置をクリエイトできる才能を羨ましく思います。

からくり装置だけに多彩なからくりを盛り込んであるわけですが、この地球上にも多くのからくりが潜んでいるのでしょうね。

ベルゼブル論争 赦されない罪

『そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」【マタイ12:22-37新改訳2017】』

聖霊を冒涜する罪は赦されない」というこの箇所を使用して、組織的権威を守ろうとするリーダーがいます。この箇所の、そういう使い方は、間違っています。

口のきけない人から悪霊を追い出す行為はメシアにしかできない奇蹟だったのです。

ですから、群衆の反応は、「ダビデの子=メシア」なのだろうか?というものでした。

この反応に狼狽したのか?パリサイ人たちは、「イエスをメシアとは認めずに、悪霊共の頭であるベルゼブルに憑かれている」と流布したのです。

ユダヤ人の「タルムード」では、「イエスは魔術によって人を惑わせた」と書き、イエスが奇蹟を行ったことは否定していないのです。

これこそ、メシアであるイエス・キリストを貶める「御霊に対する冒涜」の罪だったのです。

創造主である神を神と認めずに、ベルゼブルと同一視するレッテルを公衆で貼り付けたのですからね。

その時代のユダヤ人だけが犯すことができたということです。

メシアであるイエス・キリストを当時のユダヤ人が受け入れていれば、メシア的王国が始まったのですが、この事により、御国は取り去られたのです。

その後、AD70のエルサレムの滅亡と神殿の崩壊へと至ることになったのですね。

さらに、それほど遠くない将来に、ユダヤ人は艱難時代を通る事になっているのです。

神の御国の到来を信じるものは、ユダヤ人も異邦人もメシアであるイエス・キリストの祝福にあやかることができるのです。

最高の葬りの備えをしたのは?

『さて、イエス過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」【ヨハネ12:1-8新改訳2017】』

ラザロとマルタの兄弟のマリアが300デナリ(300日分の日当≒年収)の「ナルドの香油」をイエスの足に塗った。

これこそ、最高の葬りの備えだったのです。

マリヤは、純粋な信仰の持ち主でした。イエスのことばに静かに聞き入り、復活されることを信じて、墓に足を運ばなかったようです。

『さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。…しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」【ルカ10:38-42抜粋新改訳2017】』

十字架を前にした特別なときに、埋葬の準備として、「ナルドの香油」を塗り、そして、メシアであるイエス・キリストもそれを受け入れられたのです。

この「ナルドの香油」は、王様ならば、思いのまま使うものだったようですが、庶民の場合は結婚式の夜のために用意するものだったのです。

この行為は、福音と一緒に広く全世界に宣べ伝えられるようになりました。

前よりも悪くなる事がある

『汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」(マタイ12:43-45新改訳聖書2017)』

この箇所は、バプテスマのヨハネが活躍した時代の人に向けて書かれたとのことです。

掃除された家とは、バプテスマのヨハネの働きによってきれいになったユダヤ人のことを指しています。

でも、それを空き家の状態にしておいたので、より悪い勢力に占領されてしまったのですね。

これは、紀元70年以降から現在に至るユダヤ人離散の状況をも予表していたのです。

「クリスチャンが創造主である神への信仰を疑い、教会離れた場合にどうなるのか?」

などの問いに、引用されたりするのですが、この箇所はそれには当てはまらないようですね。

離散したユダヤ人にも、それ以外の全人類にも、続けて招きのメッセージは有効です。

『神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。【Ⅱコリ 6:2新改訳2017】』

 

自己受容がまず一歩目

はじめの一歩が大切ですね。

それは、まず、今の自分を信じて、自分で受け入れることですね。

それが、理想の自分でなかったとしても、もう一人の自分をも含めて受け入れることなのですね。

これがナカナカ難しいと感じる人が多いのですが、自己一致ともいいますね。

さらに、信仰の適用です。

人は皆、次の記述のように宴会に招かれているのです。

ただし、その宴会に出るためには、備え付けられた「婚礼の礼服」を着る必要があるのですね。

自己一致の次は、信仰の選択で、用意された「婚礼の礼服」を着るか着ないかなのですね。

意地を張って、「婚礼の礼服」を着ないと、退席をしなければなりません。

何れにしても、自由意志で選択できるのですね。

『イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」マタイ22:1-14新改訳2017』

 

「父と母を敬え」VS「自分の子どもたちを怒らせてはいけません」

『「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。…父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:2,4新改訳聖書2017)』

親に対しても、子に対しても示されていることです。

親子は、距離感のとり方が適正でないと、大きなトラブルのタネになりますから注意が必要ですね。

保護者としての役割と、一つの人格同士の対等で良好な関わりをしていくために配慮が必要になりますね。

保護者の役割への使命感が強すぎたり、子への絶対服従が強いられるような強権が発動されると関わりが悪くなってしまいますからね。

命の危険が伴うこと、違法性があること、依存性が高いことなどで、子に理解を促す役割は大切ですね。

なにもかもダメでは、子は自由を求めて家出したくなったりもしますからね。

適度にぶつかり合い、喜怒哀楽を分かち合えるような関係であれば幸福感も増すことでしょうね。

天の御国が激しく攻められる

バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12新改訳聖書2017)』

バプテスマのヨハネは、旧契約時代の最後の預言者であり、ほどなく十字架に架けられるメシアであるイエス・キリストの先駆者の役割を任されていました。

バプテスマのヨハネの活動が始まってから、天の御国の進展を妨害する人々が続々と出てきました。

パリサイ人やサドカイ派の人たちもその一部でした。

旧約聖書が預言していたメシアと、メシア的王国を拒否したのです。

その真相は、パリサイ人の傲慢であり、バプテスマのヨハネイエス・キリストを自分たちの都合でコントロールしようとしたのですが、うまく行かなかったのです。

旧契約が終了すると、自分たちの立場や生活の糧を失うという恐怖感を持った勢力の抵抗という理解がわかりやすいかも知れません。

今日でも、類似の話はあり、自分立場や生活の糧を失う恐怖感を強く感じている体制派勢力はあるのでしょうね。

地上の権力を手放すときは、やがて来るので、潔く明け渡したほうが良いのでしょうけどね。

これができていれば、苦境に立つこともないかも知れません。

人が永遠に幸福でいられる秘訣は、創造主である神にギブアップすることですね。