永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

フリードリッヒ・シュライエルマハーのことば 共感性

19世紀初め(1796-1834)のプロテスタント神学者であったフリードリッヒ・シュライエルマハーは、次のようなことばを書いています。

「いかに離れていても、すぐれた精神はすぐれた精神を察知する」

これを、佐藤優氏は
「いかなるところにいても、平和を求める精神は平和を求める精神を察知する」と言い換えることもできる。参考文献「宗教と暴力(角川書店)」p86

 

と、言っています。

この言葉には、共感性とかシンパシーというイメージを持ちました。

信仰の対象などの背景が個人個人で違っていても、「平和」などの共有できるテーマがあれば、通じ合えるし、対話や協力もできるはずだということなのですね。

コトバでなくても、行動やたたずまいで、通じたり感じたりするコトがあるのですね。

この感性は大事に磨いた方が良いようですね。

二つのJを愛した内村鑑三

内村鑑三は、「Japan」と「Jesus」の二つの「J」を愛するといいました。

彼は、イエス・キリストを信じる信仰者でした。

そして、教育者でもありました。

当時の日本は、「天皇を神とする」体制でしたから、どちらの神をとるのか二者択一を迫られたりしたのですね。

そんな時でも、彼は、二つの「J」に対する愛情を大胆に表明していたのですね。

「後世への最大遺物」という書物を著し、何のために生き、後世に遺物として何を遺すのがよいのかについて提起しています。

暗記型の教育ではなく、自分の思想と思考を鍛える教育は、後世に多くの優秀な人材を輩出したのですね。

「後世への最大遺物(内村鑑三著)」は、キンドル版などは0円で読むことが出来るようです。

ご興味があれば、ご一読ください。

ボウリングの原型はルターが発案した

それを中世ドイツの宗教革命家として知られるマルティン・ルターが、倒すピンを9本にし、並べ方もひし形にして、ボウリングの基本的なルールを統一した。これが近代ボウリングのルールの原型になっていったと考えられている。9本という決められた数のピンを倒すという行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング(en:Nine-pin bowling)」(九柱戯[2])という一つのスポーツが派生し、宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えた。九柱戯はいまだにヨーロッパでは比較的メジャーな競技で、愛好者も多い。

17世紀になると多数の宗教家(清教徒)たちが移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになった。しかしナインピン・ボウリングは西部開拓時代・アメリカで禁酒法下において酒をめぐる賭け事に利用され禁止になり、反発した有志がピンを一本足しテン・ピン・ボウリングにしたことで法律の「ナインピンボウリングを禁ず。」を回避していた。それが現在のスタイルになったと言われている。

ボウリング - Wikipedia

 

霊の闘い、サタン(悪魔)との闘いなどと聞くことがあると思います。

サタンの存在は、真実で、「…空中の権威を持つ支配者…(エペソ2:2)」として大活躍しています。

それをボウリングの原型の9ピンに見立てて倒す「九柱戯」というゲームを宗教改革家ルターがルールを統一したとされているのです。

これが、賭け事の対象のゲームになったことなどから禁止され、もう一本追加した十柱戯として、今のボウリングの原型になったということのようです。

当時の宗教家で、「ガター」でも出そうものなら、キツいペナルティが突きつけられたりしなかったか心配になりますね。

エピクロスのことば 「死について」

エピクロスの言葉】(エピクロスの教説と手紙…岩波書店
古代ギリシャの哲学者・エピクロスの「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」という言葉を知った時、私は長年悩まされてきた死の恐怖から解放されたのである。

つまり、私が存在するか、死が存在するかの二者択一なのですね。

そのように、割り切って考えられればスッキリするのですね。

「死」は、死後の世界を含めて未体験ゾーンですね。

「あの世とは、いいところらしい。逝ったっきり誰も帰って来ない。」(「父をおくる…幻戯書房高山文彦著)

と言った人もいたそうですね。

もう一つは、死に方は、千差万別ですし、選べないものだからなのかも知れません。

さらに、人を支配しようとする勢力は、一人一人が創造主から授かったいのちを奪うと脅迫して、絶対服従させようとしたりします。

キリストの教えでは

『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(ヘブル2:14-15【新改訳2017】)』

と記されています。

これを自分自身に適用すれば、死の恐怖からは解放され、自由の身となります。

それは、永遠の幸福に至る権利もついているのですから、その瞬間から永遠の生命に生きることになるのですね。

信仰と柔軟性

信仰は、堅くあるものというイメージがありますね。

でも、信仰は毎日毎日、瞬間瞬間で変化しているものだと考えています。

人間には、信念というものがあり、何を神とするかではなくても、なんとなくでも自分が信じられるものが信仰なのでしょうね。

あるいは、何も信じられないという不信も信仰なのだと理解しています。

無関心といっても、関心があるかないかですね。

同じように無思想といっても、無思想という思想なのかも知れませんね。無思想というキャンバスは、説得力のある思想に染まりやすいので注意は必要ですね。

筆者の場合は、「創造主である神=三位一体(父・子・聖霊)が、イエス・キリストを唯一のメシアとして十字架上で、全人類の罪科を贖ったこと」を信じています。

信じているつもりでいても、自分の思惑と違う現実に不信になる時も出てきますね。

信仰は一日一日、瞬間瞬間で変化する生きもののようですね。

神が近く感じられる瞬間があれば、確信の方向に信仰が深められることもありますよね。

信仰は、確信と不信の間をウロウロしますから、確信を得られた時には、柔軟に路線変更をすることも必要なのですね。

確信と柔軟性は相反するようですが、大切な要素だと実感しております。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。Ⅱテモ3:14-17【新改訳2017】』

 

三ヶ月で約19キロの減量をした男性

youtu.be

減量プログラムで有名になったある会社では、とてもインパクトがあるビフォーアフターで宣伝をしています。

体重の減量に成功できる人と出来ない人とがあるようですね。

この動画の男性は91.6kgを72.6kgに約19kgの減量に成功できたようですね。

なおかつ、シックスパックの筋肉まで手に入れています。

この動画を見て思うことは、「人間は、決断した時から変われる可能性がある。」ということですね。

また、「決断した方向性への継続こそ一番大切」なのですね。

「自分なんかムリ」という範囲で生きるのも悪くはないですが、「自分に出来そうなこと」に一歩踏み出すのも、この動画のような変化をもたらしてくれるための決断なのですね。

健康の秘訣は「小食」「菜食」「筋トレ」らしいですからね。

「より健康な生活をしよう!」と決断するのも良い方向性なのかも知れませんね。

クリティカルシンキング

クリティカルシンキングとは、あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である。

批判的思考 - Wikipedia

 

また、日本表記では、批判的思考とも言われている。

さらに、批判という定義にも幅がある。

平たく言うと、「何が大切か、何が大切ではないかを見極める能力」ということのようですね。

重要度の選別ということなのでしょうね。

「問いをたて」て、「問題を定義」し、「根拠を検討」し、「バイアスや前提を分析」し、「感情的な推論を避け」て、「過度の単純化をぜず」に、「他の解釈を考慮」して、「不確実さに耐える」という流れが一例としてあげられています。

時としては、物事をじっくり観察しなおすことが大切ということなのでしょうね。