永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

あの方は盛んになり、私は衰えなければ

(【新改訳2017】ヨハネ3:26-30)『彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」』

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストよりも6ヶ月早く生まれました。

ヨハネの役割は、イエスの先駆者として道備えをすることだったのです。

バプテスマのヨハネが「悔い改めのバプテスマ」を授ける活動をしている時に、イエスも来て、バプテスマを受けていますね。

その後、イエス・キリストが活動を広げ、バプテスマのヨハネよりもメジャーな存在になっていきました。

その時の、バプテスマのヨハネの弟子との会話がこの箇所です。

ヨハネは、先駆者としての役割を終えたと判断して発したことばでもあるのでしょうね。

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

バプテスマのヨハネは、自分の活動が縮小することを受け容れられる自分が与えられた使命に忠実に生きる人だったのですね。

エルサレムはモリヤの山

【新改訳2017】Ⅱ歴代 3:1 『ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で【主】の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所で、エブス人オルナンの打ち場があったところである。』

イスラエル大使館のエルサレム移転は、環境条件が整わないフライングだったのかも知れません。

しかし、時代の流れとしては、やがてイスラエルの首都がエルサレムになるのですね。

【新改訳2017】創 22:2 『神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」』

歴史としては、エルサレムこそ、アブラハムが、息子のイサクを捧げた「モリヤの山」だったのです。

そこに、やがて、ダビデの息子であるソロモンが、神殿を建てることになったのですね。

それは、イスラエルで一番と言っていいほど繁栄した時期だったようです。

世界中からエルサレム詣でをしたことでしょうね。

記述されているだけでも、多くの貢ぎ物や政略結婚があったようですからね。

近い将来に、エルサレムを中心とするゴタゴタが表面上解決する時が来るようですね。

世の罪を取り除く神の子羊

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(【新改訳2017】ヨハネ1:29)」

旧契約時代には、贖罪の生け贄が必要でした。

それは、傷がない清い動物が必要だったのです。

経済状態によって、雄牛、オスの子羊、山鳩二羽または家鳩二羽、もしくは、十分の一エパの小麦粉などを捧げることに規定されていました。

「それから、モーセイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。(【新改訳2017】出 12:21)」

なぜ、御子イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の子羊」と呼ばれているかについてです。

出エジプトの時に、頑ななファラオに対する創造主である神のさばきで、エジプト中の長男が死ぬと宣言されたのですが、イスラエルの一家庭に羊一頭用意され、その羊を捧げ物にして、鴨居の上と両側の柱に血を塗って過越の印にしたことに因んでいます。

出エジプトの時の出来事は「ひな形(影)」であり、御子イエス・キリストが唯一の世の罪を取り除く神の子羊(本体)」として十字架に架けられて、贖罪を確定させたのですね。

十字架に架けられたのは、過越の時に鴨居の上と両側の柱に血を塗った形状が十字架の形状と似ているのですね。預言と成就という形で取り上げられます。

十字架の形状やただの一本の杭(柱)だったのではないかと諸説論じられることもありますが、「木にかけられるものは呪われる」と言われているので、傷がない生け贄が呪われたものとされて、木に架けられた事実が大切なのですね。

律法について

エデンの園での唯一の禁止事項は「善悪を知るの樹の果実を食べてはいけない」でした。

その唯一の禁止事項を犯した人間は、さらに、アウトロー路線を突っ走って行きます。

よく言えば、冒険心の塊なのかも知れませんね。

ただ、創造主である神の保護を受けないで、「自ら天に到達する」とか、「創造主である神の上に自分を置きたい」などの強い欲望の感化を受けていたのでしょうね。

「ノアの時の洪水」や「バベルの塔」で、創造主である神が直接介入する必要が出てきたのですね。

「ノアの洪水」では、人間はノアと三人の息子とその妻達の合計8人に絞られたのです。他の人たちは、「ノアのはこぶね」に招待されたのですが、乗船しなかったのでその結果死んだのです。

バベルの塔」では、それまで、人間はヘブル語を共通言語として話していたようです。言語が同じだと、悪巧みも与しやすいので、どんどん自分たちの方法で天を目指したのですね。しかし、創造主である神が介入して、言語を多様化したので、バベルの塔の工事が頓挫することになったのですね。近い将来に、このバベルの塔が建設された地域で、世界統一政府が誕生するとも示唆されています。

しかし、この後の族長時代には、周囲から慕われていたヨブのような人もいたりして、全員が全員ワルだったのではなかったのでしょうね。

現代でも、ワルとちょい悪とまじめ風とまじめなど、様々な人間がいますね。

最近では、開き直るワルが権力を私物化していて困っている国民もいますね。

律法の原型は、イスラエル民族が「出エジプト」の後に、創造主である神から授与された「十戒」ですね。そして、生活上の規定が民数記略や申命記に記されています。

守らなければ罰という恐怖の面が強調されますが、あくまでもより安全に生活するために気をつけることと捉えないと、のびのびとは生きられませんね。

現代でも、より健全に自己愛を発揮するには、「ダメと言われているからしない」というよりは「自分の健康のためにしない」などと肯定的に考えた方が良いのではないでしょうか?

「今日は死なない」を積み重ねた

 私自身は、ずっと居場所がありませんでした。だから、摂食障害に苦しむ若い人たちの居場所をつくってあげたい、という漠然とした思いをいま持っています。
 摂食障害は人によっていろいろですし、若い人たちに伝えられるメッセージはそんなに多く持っていませんが、どうか死なないでほしい。
 「今日は、死なない」
 その積み重ねで、私は生き延びてきたように思います。

「きょうは死なない」の積み重ね 25年摂食障害に苦しんだ女性 - ライブドアニュース

中学生の時に摂食障害だと気づいたが、抜け出すのに約25年間を要したとの取材記事がありました。

「今日は死なない」と一日一日を生きてきたそうです。

語るにも適当な言葉が見当たらないほど過酷な日々だったのでしょうね。

「一日一日」ということばが印象的で、毎日の積み重ねが人生なのですね。

「今日も生かされている。今日も生きる。」とはつらつと生きたいですね。

聖書の中の記述には次のようなケースもありました。

「すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。(マタイ9:20-22【新改訳2017】)」

この女性のケースは、「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」という信仰が救ったと記されています。

ケースバイケースですが、長患いは体力的にも精神的にとても辛いものですからね。

どのような状況であれ「…にもかかわらず、今日も生きる」と生きていきたいです。

バランスはどこかで取れるらしい

youtu.be

ぶらさがった額縁に空のガラスボトルを積み重ねてバランスをとっていく様子は、思わず固唾をのんで見入ってしまいました。

これを組み合わせてバランスをとると提示されても「ムリムリ」と頭から否定しまいそうですね。

でも、この動画の男性は落ち着いてやりのけてしまいます。

成功体験とどこかで必ずバランスが取れるはずだという強い意識が働いて支えているようにもみえます。

パフォーマーやアーティストでなくても、日常で色々なバランスをとっているのですから、適切なバランスが取れているかどうかを意識したいですね。

味覚の不思議

身体のPhが酸性に傾いていると酸っぱさを強く感じるのだそうです。

つまり、アルカリに傾いている健康体の人は、あまり不快に感じる酸っぱさを味わうことはないようです。

足裏のツボも同じようなことがあり、内臓が弱っている人は、足裏のツボを刺激されると激痛を感じるのだそうです。

さて、この味覚ですが、人間の塩分濃度にも関係しているらしいのです。

自分の塩分濃度よりも味付けが濃いとしょっぱく感じたり、それよりも薄いと味気なく感じたりするようです。

甘いものを食べたあとに、甘夏でも食べたりしたら、酸っぱく感じたりするものですよね。

不思議なモノですね。

より良い食材を美味しくいただけるのは、健康な証拠ですから、感謝ですね。