永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

「失敗しちゃいけない」は、ブレーキになる

「視覚吸引現象」と言われるものがあります。

見ているものに、引き寄せられていく現象のことです。

自転車に乗っている人が、歩行者を発見したとします。

本来ならば、歩行者をよけて、通行するはずですが、視覚吸引現象が起きると、歩行者にぶつかってしまうのですね。

気になるものをよけるのではなくて、気になるものにまっしぐらになってしまうのですね。

最初から「失敗」とされることには取り組む人はほとんどいないでしょうね。

「うまくいく」と思っていても、どこかに「失敗しちゃいけない」と考えているのですね。

ですから、「失敗」の意識が膨らんでいくと、プレッシャーに拍車がかかってしまうのですね。

そして、「ブレーキ」が作動し「失敗するならやめておこう」となってしまうことがあるのですね。

人生は、失敗の積み重ねですから、恐がることはないのですね。

いのちは大切に考えたいですが・・・。

相互信頼の積み重ねが居場所をつくる

居場所がある人は幸せですね。

これによって、人生の充実感が変わってくる大切な要素かも知れませんね。

生まれ育った場所「実家」が居場所になる人もいるでしょうね。

でも、天涯孤独になったり、実家が移動したりで、居場所がないという人もいるでしょう。

一方、人懐っこくて、行く先々で、居場所を確保するのが得意な人もいますね。

でも、「居場所をつくる」ためには、相互の信頼関係が必要ですね。

自分だけが、「居場所が欲しい」とか「居場所だ」と思い込んでいても、実際には、ギャップがあるケースもなきにしもあらずですね。

これには、お互いの信頼の積み重ねで、より良い居場所を作り上げていくという共同作業が求められるのですね。

モーガン・フリーマンからのアドバイス

若い映像監督が、ベテラン出演俳優のモーガン・フリーマンに「アドバイスをください。」と願ったそうです。

そうすると、「Listen」とかえってきたというのです。

単語通りに捉えれば「聴きなさい」ということですね。

この一言のアドバイスをどのように考えて深めていくかで、その先の展開が変わりそうですね。

私の考えですが、
聴きなさいというものは、受け手のニードについて、何が求められているのかが一つ目ですね。

二つ目は、制作サイドの様々な意見ですね。予算であったり、方針であったり、アイデアを絞り込んでいくためのプロセスなどですね。

三つ目は、出演者の演技に対するイメージやアイデアを聴いて活かしていく。

このような要素が、含まれているのではないかと推察します。

モーガン・フリーマンの一言には、もっと含蓄があるのでしょうね。

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』(黙 3:13 【新改訳2017】)」

とも記されていますが、聴く耳をトレーニングする必要ありますよね。

探偵ナイトスクープ30周年 名作一位

「23年間会話ない夫婦」が選ばれました。

奈良県に住む18歳の男性から、「僕は物心がついてから両親の会話を聞いたことがありません。59歳の父は子どもには普通にしゃべるのに母とは一言もしゃべろうとしないのです。理由はわかりません。このままでは熟年離婚なんてことにもなりかねません。父がしゃべらない理由を解明していただき、できることなら夫婦仲良く会話する姿を見てみたいです。」という依頼でした。

竹山探偵が出向いて、父親に確認すると「子どもが生まれてから、妻が子ども中心の生活になって、拗ねたみたいになって、話さないことにしたら、話せなくなった」とのこと、これには竹山探偵も「お父さん、マジですか?」と驚愕。
「しゃべりたい気持ちはありますか?」との問いには「…はい」と気まずそうに答えるので、それなら、テレビ画面を通じて練習をしてみたが、すんなりとは行かない様子。
「私はお父さんと会話したいと思っています。奈良公園で待っているんで来てくれますか?」との呼びかけに応じて、2人が出会った頃にデートをしていた公園で会うことになった。
この様子を木陰から見守る探偵と3人の子ども達。
再び会話をした両親を見て、子ども達も号泣していた。
後日談、その翌日、お父さんが出かける時に「…」といって出て行ったのをお母さんが「行ってきます」と言ったのだと気づいて、慌てて追いかけて「いってらっしゃい」と送り出した。それ以来、新婚夫婦のようだと子ども達がいうように、毎日、続いている。

 

会話を交わさない両親を見て、「自分たちがいなくなったらどうなってしまうのだろうか」と心配になる子どもが依頼をして解決に至ったのが、当人達以外にも、幸福感を届けてくれたように感じます。

話さなくなるきっかけは、本当に周囲からすれば些細なことなのかも知れません。

当人にとっては、相当な疎外感からとった行動なのですね。

子育ても、適度な共有がなされないと、このようなケースは潜在的にかなりあるようにも想像します。

自分の序列が、だんだん下位になっていく疎外感は、大人性を育てていくことで乗り切れるといいですね。

真の霊性について…工藤信夫先生

「…真の霊性というのはその人だけでなく周囲をも高めたり、深めたり、広めたり、自由にしたり、豊かにしたり、厳かにしたり、本質的なものに向かわしめる、そういう性質をもっていると思います。ナーウェン的にいけば、ますますその人を、低さとか、貧しさだとか、小ささとか、そういう方向に導く。ところが今私が伝え聞く方向性というのは、自己拡大であり、慢心であり、騒がしさであり、大きさであり、成功である。だから、もしそういう方向が「霊的」ととらえられたら、そごい大きな混乱を招くのではないかと思います。…(今日における「霊性」と教会…いのちのことば社)p25より」

奇跡ばかり求めたりする信仰もありますね。そうなると、気になる症状が取り除かれたら、霊的という評価になり、取り除かれなければ霊的ではないという評価になるとか、妙な歪みが生まれます。

人間としては、症状の改善を創造主である神に願い出るのだけれども、それをどのように取り扱うかは、人ではなく神の側の権利だということなのですね。

霊的には、創造主である神の御前に静かに居て委ねることで、より謙遜にされていくのですね。

委ねる相手を間違うと「霊的」という名を使われて、搾取される危険性もありますから注意したい所ですね。

「イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:13-15【新改訳2017】)」

創造主である神との霊的な交わりによって、渇くことのない水が供給されるのですね。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23【新改訳2017】)」

そして、御霊の実を味わうことができるのです。

たいていの人が泣いてしまう絵本

www.ehonnavi.net

「ずーっとずっと大好きだよ(作・絵: ハンス・ウィルヘルム 訳: 久山 太市 出版社: 評論社 )」

飼い犬との関係性が共感を呼ぶのでしょうか?

飼い主と飼い犬は兄弟や家族以上の距離感で、相思相愛だったのですね。

「大好き」という気持ちを毎日、言葉で伝えていた少年、その気持ちで最期まで寄り添ったところも感動ですね。

「好き」というのは「Like」ではなく、「Love(愛している、大切)」というニュアンスで伝わってくるのも、涙を誘う要素なのかも知れませんね。

動画もありました。

www.youtube.com

死に至る病の途上

「不治の病」で余命○○。

などと、言われると平静な気持ちではいられないモノです。

そうでなくても、人間は、先祖から受け継いだDNAに「肉体的致死率100%」という信号が埋め込まれています。

現代のような長寿社会と言われる時代でも、120歳を越えて生存される例は、私は聞いたことがありません。
参考記事:http://www.guinnessworldrecords.jp/news/2016/3/oldest-person-living-history-419233

日本の明治時代には、「人生50年」と言われたそうですから、環境要因なども影響するのでしょうね。

ノアの洪水以前では、メトセラ969歳という記述がありますね。

これだけ、長生きの時代ですから、人口も爆発的に増えたのでしょうね。

もう一つ、肉体的死を経ないで、創造主が引き上げたエノクという人もいましたね。

今の時代は、80歳代が平均寿命とされますから、明治時代からは長生きですが、ノアの洪水以前に比べれば、まだまだ若いということになりますね。

やがて来るメシア的王国(千年王国)では、その時代に肉体的生命に生きる人は100歳で死ぬのは若すぎるという時代になるようですよ。

今の時代の信仰者は、その時代には、肉体的生命を卒業していますから、永遠の生命に活かされているのですね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハ 3:16 【新改訳2017】)」