強気のポーズは大切
でも、弱音は言語化した方が、共有しているだろう安心感につながるのだと、脳科学者の中野信子さんは言っていました。
これをつなぎ合わせると
ガッツポーズをして、自信満々の表情で、「ダメかも知れない」
と、やってみることになるのですね。
人間には、強きと弱きの両面があるのは当然なことです。
この二つのバランスをどのように取っていくかは、エネルギーの消費量にも関係してくることなので、意識を持って、試行錯誤してみる価値がありそうですね。
「死に至る病」を表したキルケゴールは、「絶望こそが死にいたる病」だと記しています。
彼は、1800年代に、デンマークで、国教会と相容れない状況の中で、この考え方を書いている訳で、様々なことがあっただろうなと想像します。
罪の中に生まれた人間は、希望に背を向けており、その方向にとどまり続けるなら、絶望への道しかないという方向性を示唆しています。
一方、信仰を持って、希望の方向に向き直ることによって、永遠の幸福(生命)に到達できるのだと説いています。
「罪の反対は信仰」というタイトルは、キルケゴールが分かりやすいように、二元的に提示している最重要な選択テーマなのでしょうね。
「これ罪の死によりて王たりし如く、恩恵も義によりて王となり、我らの主イエス・キリストに由りて永遠の生命に至らん為なり。(ロマ5:21)」
人間には、永遠の幸福への希望を信仰によって獲得する以外に道を持たないというのが、究極の選択になるでしょう。
この希望があれば、他の選択の幅は、もっと広がることでしょうね。
地球外生命体が何を示しているのかは、ミステリーに包まれているみたいですね。
月探査から始まって、火星探査とか、スペースシャトル、宇宙ステーションなどさまざまなプロジェクトで、宇宙に行ってきたとされる方々がいますね。
無重力状態を体験して、重力を有難く感じたかどうか?わかりませんが、地球上で生きていれば重力によって、自分から運動を意識しなくても、最低限の筋力をつける運動にはなっているようですね。
さて、地球外から来る対象は、聖書的(ディスペンセーション)に言うと、メシアであるイエス・キリストが、空中まで信者を迎えに来る。
艱難期が終わる時に、メシアであるイエス・キリストが聖徒と共に再臨することがあげられます。
これを恐れているとすれば、メシアを味方につけようとしてない勢力と言うことになってしまいますね。
「主イエスよ早く来たり給え」と言う人たちは、大歓迎なわけですからね。
脳科学者の中野信子さんは、学生時代
授業を聞いているだけで、ほぼテストは満点だったそうです。
クラスの多くの人が70点とか取っているのを不思議に思っていたそうです。
その頃は、自分に備わった特別な能力を自分自身で理解できていなかったのでしょうね。
むしろ、「みんなが談合して、70点くらいにするように相談しているんでしょう?」
みたいなコトを発言して大ひんしゅくを買ったことがあったそうです。
「当たり前」にできる人と、できない人では、見方考え方が違うようですね。
そのこともきっかけになって、人の脳の違いについて興味を持って、脳科学を目指すようになったらしいです。
やがて、東大に入って、自分と同等以上の変人(特殊な能力の持ち主たち)に囲まれて幸せだったとか。
東大は、不思議な空間のようですね。
学生で、周囲に違和感を抱いている人がいたら、やがて東大への道が開けるかも知れませんね。
アブラハムイサクヤコブの子孫である選民とされたユダヤ民族が、出エジプトの後、約束の地を目指した時に、先住民であるペリシテ人が住んでいました。
人間には、理解しがたい部分もあるのですが、ユダヤ民族に対して、約束の地を占領するためにペリシテ人を一人残らず滅亡させるように命令が下されたのですが、それは、実現に至りませんでした。
この人たちは、ペリシテ人の子孫では無いのですが、ユダヤ民族の傍らにいる存在としては、同じような意味を持っています。
しかし、人間には分からない部分として、誰が正統なアブラハムイサクヤコブの子孫である選民なのか?
これこそ、神のみぞ知る領域の話ですね。
また、信仰者は、イエス・キリストをメシアとして信じることで無罪とされるのですが、現実は無実では無いと言うことです。
イエス・キリストの贖いの血で覆われるので、無罪とされる訳です。
人が生まれ持った罪の性質は、肉体からは離れることが無いのです。
当時の約束の地を前にした選民が、ペリシテ人を滅ぼし尽くせなかったように。