永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

レジリエンスは、磨ける才能かも

「ふられたら次の人」なんて、大阪の街頭インタビューに答えたおじさんが言っていました。結構なナンパ師か、それとも人生の達人とお見受けしました。

それはさておき、何回チャレンジしても、クリアできない課題があるとしても、あきらめずにコツコツと、粘り強く努力を続ける人がいます。

最近では、「レジリエンス」ということばが使われるようになってきました。

レジリエンス(resilience)とは、逆境や困難など強いストレスに直面した際の「ストレス耐性」「抵抗力」「逆境力」「折れない心」などといった意味で使われている言葉です。

それは、「決して曲がらない鋼のような強さ」ではなく、「竹のように曲がってもすぐ戻るしなやかな抵抗力」であり、「失敗や挫折をしても、それを糧に成長する回復力」のことを指しています。

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竹のようにとか、風を受け流す柳のようにとかですかね。

勝ち負けの二元的な考え方より一元的なしなやかさの方が、立ち位置に偏りが無くバランスが取りやすいのでしょうね。

レジリエンスを磨きたいですね。

羊は「バアァァァァー」と鳴く

そして、山羊は「メエェェェー」と鳴きますね。

昔、羊の世話をしていたという方が、鳴き真似をしてくれました。

自分が、聞いた羊の鳴き声とも一致していました。

マタイ伝25:31-46では、羊と山羊が登場します。

「…牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、羊をその右に、山羊をその左におかん。…」

これは、艱難期を生き延びた異邦人の個人個人の裁きについての箇所だと言うことです。

艱難時代にアブラハムイサクヤコブの子孫である選民の血筋ユダヤ人への対応で分けられることを意味しています。

羊は、親ユダヤで、信仰者として扱われ永遠の幸福に分けられます。

山羊は、反ユダヤで、不信仰者として永遠の刑罰(レイクオブファイアー)に入れられるというのです。

火の池と言っても、青白い光であれば、真っ暗です。肉体から分離された魂が終わりの無い火の池に入れられるのはどれほどのコトなのか想像を超えています。

しかし、避けたい状況ではあるでしょう。

信じるか信じないかは、個人個人の自由意志です。

信じる者にとっては、これこそ究極の「永遠の生命保険」だということです。

掛け金もいりません。ただ、信じるだけですからね。

良い緊張状態

手に汗を握るような、体のあちこちに嫌な汗をかくような体験ありますよね。

これは、良い緊張とは言えませんね。

良い緊張とは、脳科学者の中野信子さんによると瞳孔がいつもより少し大きめに開き、光がたくさん入るコンディションになることらしいのです。

そうすると、周囲がカラフルに見えるようになるそうです。

一方、悪い緊張状態の時は、「トイレに行きたいなあ」とか「手に力が入りにくい」などの感覚が顕著にあらわれるそうです。

そんな時は、ドーパミンが分泌されて、スゴく好きな相手とデートする前みたいな気持ちになるらしいです。

そのような、わくわくドキドキが味わえるコンディションに巡り会える人は幸せですね。

小学生の長女の例文

twitterで話題になった小学生の漢字を使った例文です。

「私の中では、内側の人と外側の人がいる」

とのことです。

小学生で気づいてしまったのですね。

大人の立場からすると、彼女は早熟なのかも知れませんが、もう少しメルヘンの世界に浸っていて欲しいとも思います。

最近では、着ぐるみの方々が、活躍する時代なのでファンタジーと分かった上で、キャラクターを楽しむことも大切なのかも知れませんね。

大人の世界を覗いてしまっても、少女の心を解放させるような、夢中になれる何かを抱えていて欲しいです。

文才があるのかも知れませんし、いろいろ楽しみですよね。

自分の意思に反して名前を使われたら?

「名前を語られる」ってことありますよね。

自分は事実無根なのに、濡れ衣を着せられているなんて経験も少なからずあるのでは無いでしょうか?

「○○総理の意向」だとか、そんな話で、行政が歪められたとか話題になっていますね。

そんなことは日常茶飯事だとか、吹聴している向きもあります。

そもそもの話は、名前を勝手に使われたのなら、名前を勝手に使った人たちを正す必要があるのではないでしょうか?

これは、「立法府の長」ではなく「行政府の長」が果たすことが筋でしょうからね。

立法府は、行政を正す立場にありますから、質問するのは当然のことです。

それに、対して資料も示せない行政はおかしいと主権者である国民は判断するのが自然でしょうね。

水戸黄門の印籠」は正義のためには用いられても、悪事には荷担しないことになっている前提でね。

「あることをないことにはできない」との役人としての矜持を示された前次官には敬意を抱いてしまいます。当たり前のことを言っているのに過ぎないのですが。

「無いことにしたい」意向を持っている人は、最大限に怪しいわけですからね。

特区という名の治外法権がお望みなのかな?

何のためにならがんばれるのか?

結論から言うと、「自己満足のため」なら、がんばれる人もいるようですね。

「必要性があること」より「自分が興味があってやりたいこと」が優先する人は、もしかしたら、その傾向があるのかもしれません。

これは、「脳内快感物質が出てくる心理学的報酬」のために達成する選択をするみたいですね。

馬の目の前にニンジンをぶら下げながら、馬に仕事をさせるような方法よりも、さらに、もう一段、過酷かも知れませんね。

でも、人間が、授かった能力や使命感は、どんな困難に見えることでもクリアしてしまうことがありますね。

それは、脳内快感物質の分泌による快感が大きいことが影響しているのですね。

それを逆手に取っているのが、ブラック企業などかも知れません。

そこまで求められていないことをしなければ気が済まない人は、要注意ですね。

医療は寸志で変わるのか?

病院の中で聞こえてしまった話です。

手術を受けた方が、同じような手術を体験した人と話をした時に違和感を感じたそうです。

話をしていた当人は手術を受けた時に、結構、辛く感じたことが多かったみたいです。

それが、同じような手術をした人に、「辛くなかったですか?」と聞いたら「麻酔の先生が、何回も見に来てくれて、マッサージまでしてくれた」などと言っていたというのです。

どうやら、「付き添いの家族が、執刀医たちに対して寸志を包んだ」とのことでした。

実際のつらさが、どの程度の差かは分かりませんが、「寸志」の差がどの程度あったのかには興味がありますね。

まあ、人間ですから、影響が無いとは言い切れないでしょうけどね。

最近は、公立病院は「寸志辞退」という基準が建前になっていますので、「寸志」がなくても、そこそこのケアを期待したいですね。