永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

出すことの大切さ

「船底の淦(あか)をくみ出す」ということを聞いたことがあります。

船の底には、穴が開いているわけではないのですが、海水で船底が冷やされて船内の空気に含まれる水分が液化して船底に貯まるのだそうです。

それを過小評価して放置しておくと、最悪の場合は、沈没してしまうことが考えられるのですね。

それは、人間の堪忍袋や心も同じではないでしょうか?

自分の中に、その容量以上のモノを貯め込んでいくと、それによって身動きがとれなくなることが考えられます。

そして、その状態を実感している方々も多くいますね。

自己表現が適正にできていないと、インプットとアウトプットのバランスがとれなくなり、代謝不全に陥ってしまうようです。

表現=自分の本音を吐き出すことは、個々により異なりますから、文章を書くなり、絵を描いたりする芸術的な方法など、自分に合った方法が習慣化できると良いみたいですね。

落ち着く場所をコストをかけてつくる大切さ

広い家であっても、何か落ち着かないなんて話しを結構、耳にします。

新築の家を建てても、結局、前の生活のような、家族団子状態な方が慣れているので、そのようになってしまっているとかですね。

生活習慣は、そんなに簡単には変えられないという部分も含んでいるのかも知れませんね。

私の場合、カフェのカウンター席で、机上面と座面などの関係が体型にしっくりくると、落ち着くなあと実感したことがあります。

ならば、と、自分が使っている机とイスの高さ関係をそのサイズに調整してみると、以前よりも落ち着く感じになりましたね。

要素として思いつくのは、より良い姿勢を保てること、環境条件、ムード、明るさなどがあげられますね。

自分が、落ち着いて、自分を解放できる場所を多少のコストをかけてでも作ってみる気持ちは大切にした方が良いみたいですね。

どのようにサバイバルするか?

別の言葉で言うと「生き延びる」とか「生き抜く」ということだと受け止めています。

自分に授けられた魂、そして肉体に与えられた命、自分が生み出され育まれてきた環境など、自分ではコントロールできない要素が大半のように感じます。

その中から、自分で選択できることや努力できるところを絞り込んで、見つけ出して、それに集中していくことが必要なのだと考えています。

集中力が欠如する要素として考えられるのは、自分には何ともできない要素に対して、気持ちが持って行かれて支配され続けてしまうことです。

これでは、渦に巻き込まれてしまうわけで、そこから、離れて別の方向を向き直ることができれば、もっと建設的に選択や努力に集中できるのではないでしょうか。

意識して、自分ではどうしようもない要素を見て排除することから習慣化するのもアリかもしれないですね。

まあ、何でも無理になってしまうと困りますが、渦からは遠ざかるのが吉ではあるでしょうね。

伝わっていますか?

コミュニケーションの最重要課題は、相手に伝わることですね。

大切なパートナーとの関係が変わる時の要素として、「すれ違い」というモノが多いみたいですね。

気持ちを抱えながら表現できないかしないか、または、表現しても相手が心を閉ざしているか、相手に届く手段が違っているかなど、様々な要素も個々のケースであるのでしょうね。

無線を使う時は、周波数を合わせておくということが大切です。

これが合っていないと、絶対に相手に伝えたいことが伝わりませんよね。

このような連絡手段や、暗号(言葉とその意味を共有すること)をパートナーと整えておくと良好なコミュニケーションが維持できるのでしょうね。

消え去ってしまうモノ 残るモノ

記憶装置の故障などで、デジタルデータも消えることがあります。

手元のPCがクラッシュするリスクに備えてクラウドに保存しておくのも選択肢ではありますが、それでも、絶対ではないですね。

何カ所かに保存しておけば、確率から考えて、全部が消滅してしまうことは考えにくいと言うことに過ぎないわけですね。

人間の記憶は、あやふやな側面もありますが、脳内のどこかに記憶は残り、ある時には甦る不思議なモノですね。

最近は、一人1台以上の携帯電話が使用されているので、写真撮影をしてもいいイベントなどでは、ほとんどの人がシャッターをきるのに夢中になっています。

その中で、じっと目の前の出来事を肉眼で注視しているおばさまがいたのを捉えた写真が印象的でした。周囲の人は写真撮影に夢中になっているのですから、一人だけ目立ったわけですね。

映像データを保存して誰かと共有するのもいいのですが、目の前の出来事を肉眼で自分の脳に刻み込むのもステキな楽しみ方なのだなと感じました。

最近は、写真を撮りながら、自分の目でも楽しむように心がけています。

どこにでいるテロ予備分子

本当に取り締まれるのでしょうか?

共謀罪」などの法制化が、加速しているようです。

治安維持法」なんてものも過去にはあり、その適用を受けた人たちが昭和の時代におりました。

ヒソヒソ話をしただけで逮捕されるとか?そのようなイメージを思い浮かべただけで逮捕されるとか?

テロを未然に防ぐためには手段を選ばないための手法として用いられようとしているのか?

急ぐ理由がよくわかりません。何度も類似の法案は廃案になっていますからね。

歴史を振り返ると、エステルの時代に、ハマンという大臣が、エステルの叔父のモルデカイを架けるために、50キュビトの木を用意したのですが、結果的に用意したハマン自身が架けられることになったという出来事がありました。

国民の幸せを願う権力者ならば、どのような法制度も公正に用いる事が想像できますが、法律さえ遵守しないような権力者であれば、色々な法の乱用が懸念されても致し方がないでしょうね。

国民の心と生活を守る政治を切望します。

メシア的王国ではそのような正解が実現します。それまでに、そのような世の中を見ることができれば幸せですね。

助けを求める相手

「水に溺れる者は藁をもつかむ」

という言葉がありますが、今こそ助けが欲しい時には、手当たり次第に求めますよね。

でも、結果は助かるかどうかもわかりませんね。

有事ではない時の平時にこそ色々なシミュレーションをしておきたいものです。

報道などで典型的な詐欺パターンというものが、繰り返し報じられます。

原野商法と言われるケースでは、まず利用価値が何とも乏しい原野を夢のようなキャッチフレーズで売りまくります。

でも、やがて詐欺であったことが発覚します。

頭を抱えている被害者の所に、弁護士が被害者の会を作りませんか?と現れます。

そのために、一口いくら必要ですと、また、お金を巻き上げます。

同じリストが使われているケースもあるようで、被害者は最低2回は被害を被るようです。

本当の救済に繋がる人や対象に頼らなければ、何度も被害に遭い傷つき、がっかりすることになるのですね。

用心したいものですね。